abejunichi@icloud.com

C

one
 彼女といっても彼女は彼女ではない。
 彼女は20代も終わりにさしかかっていて、僕は20代がはじまったばかりだった。乱れた髪をゴムでひと括りにしてしまうと、何かのメロディを口ずさみながら彼女は朝食の準備にとりかかった。僕はさっきまであった親密さが、ただ彼女が朝食を作りはじめたというだけで薄れていくことについて思いをめぐらせていた。
 その部屋の色は白を基調に整えられていた。彼女の普段のファッションの多彩さと比べると驚くほどシンプルな部屋だ。フォーマルからカジュアルまで、あらゆる素材を用途に応じて彼女は自在に着こなす。だからこそ、その部屋では彼女の存在がひと際、鮮明に映る。
 自分の見せ方を知っているの、彼女は何でもないことのように笑う。
 真っ白な空間の中では、様々な色彩をまとった彼女がいつも主役だ。衣服は常に買ったばかりのように整えられている。けれど、僕にはどうしても彼女が自分の服にアイロンをあてる姿が想像できなかった。彼女のそんな洗練が、いつも心を新しく捉える。彼女の言う経験の差がまるで映像のこちら側と向こう側のように僕らを隔てている。
 昔は結構いろんなものがこの部屋にもあったのよ、彼女は懐かしそうに言う。そんな言葉を聞く度にかつて彼女が所有していたものについて考える。けれど、それはわからない。彼女の今だけが、僕に感じとれることの全てだ。
 彼女の部屋は僕の滞在の後には、その痕跡をかき消して、また他の男の訪れを待つ。それが彼女の魅力でもあった。

 彼女は少しお酒を飲むと、きまって無邪気な微笑みを浮かべはじめる。そんな陽気な酔い方をする。アルコールの飲み方も心得ているのだ。彼女と飲むと、僕もつられて笑顔になる。
 ゆっくりと壁が取り除かれていくように、僕らはお互いの身体で遊び合う。彼女が僕の胸から腹部へかけて人差し指でなぞると、僕も彼女の胸から腹部へ、そしてもっと奥へと指を這わせる。身体を交換しあうように、僕らはお互いの隅々までを使って語り合う。その境界線が消えるまで何度も。やがて日常の憂いが溶解し、僕と彼女は一対の蝶つがいのようになる。
 日付が変わる頃になると、眠るまで、僕らは昨日のことを話しはじめる。
 僕は大学生活のまっただ中で、彼女は仕事をしている。だから僕らが過ごす日常は違う。僕は彼女から未来を学び、彼女は過去を思い出すように語る。話は前後し、僕が過去をふり返ることもある。けれど、僕の過去はまだ何の意味づけもされていない。
 これが僕と彼女の週に一度の日常だ。
 時折、真夜中に彼女が泣いている気配を感じることがある。薄い暗闇の中で、鮮明だった彼女の輪郭だけが傍らにある。繰り返される夜の闇にむけて、彼女は何かを思い出そうとして、でも、何も浮かび上がらない時のような混乱の中にいる。
 ただ、彼女の流す涙の感触が僕の胸で乾いていく。泣き顔も泣き声も彼女は決してみせない。涙の跡と肉体の接触だけが彼女が泣いていることを伝えてくれる。何がそんなに彼女を哀しませるのか、何度も尋ねようと思う。けれど彼女が泣き疲れて眠るまでそのまま時間が過ぎ去って行く。

 ある日の僕らの会話はこんな風だった。
「今度、海を見に行かないか? レンタカーを借りて。もうすぐ長期の休みになるんだ。どうかな?」
 僕は何の気なしにそう言った。
 彼女は少し考えるようなふりをした。
「私はあなたとはどこにも行かないわ。ずっとこの部屋で会うの」
 彼女はすっかり何かを決めているようにそう言った。
 僕は理由を聞いた。
 彼女はまるで自分が世界の理そのものになったように言う。
「月曜日にはドライブ用の彼と会う。彼とは色んな場所へ行く。火曜日には食事を楽しむ。満たされるまで、また別の彼と料理を味わう。水曜日にはあなたとこうしている。木曜日には家政夫がやってくる。この部屋の隅々までをクリーンにしてくれる。金曜日の相手は様々。毎週、違う男が私の部屋を訪れる。土曜日には服を買ってくれる彼と買い物にいく。私は自分にふさわしい服を手に入れる。日曜日に何をするかは誰にも言えない。それは私だけの秘密の一日」
 彼女はそう言うと、もう付け加えることがないように煙草に火をつけた。
 たまには違うことがしたい。そう言いかけてやめた。彼女はきっとこう言うだろうと思ったからだ。それは無理よ、あなたはあなただのだから、と。
 けれど、僕は僕であるという自由を奪われて、水曜日の彼、という固有名詞になったような気分になった。彼女に与えられた役割に反抗するように僕は自分自身に言い聞かせる。彼女だって僕の彼女なわけじゃないのだから。
 それでも僕は僕であると同時に、彼女の水曜日の彼でもあり続ける。

 一度、彼女を彼女の部屋以外の場所で見かけたことがある。やはり水曜日のことだ。いつもより少し早く、彼女の部屋に着き、彼女がまだ帰っていないことを確かめると、辺りで時間をつぶすことにした。まだいつもより時間があった。あいにくの夕立に、傘をさしながら街を歩いた。天気予報が珍しく当たったのだ。
 小さな駅があり、それに付随するように商店街がつつましく開けている。ショウウインドウの向こう側で多くの主婦がもうすぐ帰ってくる家族の為に買い物をしている。バス亭には定時で帰路に着くことができた幸運なサラリーマンが列をなしている。バスの運転手はまだ仕事中だ。大通りに出ると、水を跳ね上げながら車体が疾走している。幹線道路では無数の車がそれぞれの目的地へ向かっている。近い目的地もあれば、遠い目的地もある。この時間帯だど、それらはひとつの連なりとなって、交通渋滞を巻き起こす。ふと立ち寄った店の店内放送からは、そんなトラフィックニュースが流れている。店の前にある小さな公園では雨にも関わらずおじいさんが犬と散歩をしている。きっと雨でも犬がそれを望んで、おじいさんもそれを望んだのだろう。小さな幼稚園では、子どもたちが純粋な笑い声をあげながら降り注ぐ雨に歓声をあげている。
 そんな夕刻の景色の中で彼女を見かける。
 彼女はいつもの彼女ではなく、具体的に20代後半の女性にみえる。普通の、良いとか悪いとかそういう意味のない、あらゆる場所に存在するという意味の普通さで、彼女は彼女だった。そして僕はいつもながら普通に僕だ。
 僕は彼女に声をかけようと思う。ルールとか、規範とか、そういった物事の成り立ちと関係なく、偶然会ったのだから、その偶然さにまかせて声をかけようと思う。そして、歩調を合わせるように傘を並べて彼女の部屋へ帰る。とても自然に。
 けれど、いつもの彼女と今の彼女は本質的に違う。もし声をかけたなら、どなたですか? と言われそうな、そんな人違いの可能性すらあるように違う。彼女がみせたいと思う領域の外に今、僕はいる。
 山から海へ流れゆく河の底で不揃いの石たちはぶつかりあいながら、丸く削られていく。街という多くの人々が交差する中で、僕は彼女自身の本来の姿を見いだす。そしてその内側に深い親密さのようなものを感じとる。かつてなかったほどに。
 僕は今の彼女の姿をそっと胸の内にしまっておいた。



two
 彼女は音楽に身をゆだねるのが好きな女性だった。
 ”You remaind me”というタイトルのレコードを彼女は繰り返し聴いた。もしもう一度生まれ変わるなら、私は音楽そのものになりたい。口癖のように彼女はそう言った。繰り返し、繰り返し、誰かに聴かれ続ける音楽。そんな風になってみたいと。
 僕は彼女に勧められてそのレコードを買った。けれど、その良さが最初はわからなかった。感性の違いだったのだろうか?
 でも、僕は彼女のことが好きだった。彼女が純粋に音楽を好きなことも知っていたし、何より素敵な笑顔がいつもそばにあった。
 僕は音楽のことはよく知らないし、理解できるとは思わない。ただ感じるだけだ。そして部屋の空気を入れ替えるように、僕は音楽を聴く。けれど彼女は違う。僕の知る範囲では彼女の人生は音楽とともにあったといっていい。

 駅前の商店街の一角にあるレコードショップで彼女は働いていた。時代に取り残された古ぼけた店だった。そこに行けばいつも彼女に会えた。訪れる客は常連ばかりだったから、みんな彼女と話をしていた。なかには彼女との会話を楽しみに店を訪れる客もいた。どちらかといえば、僕もそんなひとりだったのかもしれない。
 時に人は心の奥底にあるものを音楽に託す。同じ夢や喜びや哀しみはひとつとしてないけれど、音楽は心がわかちあえるような幻想を与えてくれる。彼女はそんな慎ましやかな世界の中心にいるように思える。

 ずっと通い続けているうちにカウンター越しにではなく、店の外でも彼女と話すようになった。それくらい彼女に惹かれていた。最初はぎこちなく音楽について話し、最近、読んだ本について話し、やがて人生について語り合った。
 彼女と友だちになれた? と聞かれたら、僕は迷うことなく答えるだろう。彼女にとって僕が友だちだったかはいつか彼女に会うことがあったら聞いてみてほしい。
 彼女の店に行く途中で、いつものように電話で天気予報を聞こうと思った。けれど、先に電話が鳴った。ひどく取り乱した声が聞こえた。僕は何があったのかを尋ねた。電話の向こう側で彼は言った。
「高校時代の友人が亡くなった。今、知らせが届いた。もう何年も彼と話をしていなかった。本当に仲が良かったんだ」
 僕は電話越しにそれを聞いている。こんな時にどう答えればいいのかなんてわからない。
「高校のそばに河が流れていて、よく彼と河原で学校をさぼって話をした。似合わない煙草を吸いながら。別に悪ぶっていたわけじゃない。何もかもが退屈に思える時期ってあっただろ? そんな時によく彼と過ごした」
 何もかもが退屈に思える時期。僕にもそれはあった。今だって時々そう思う。
「俺は彼に対してどうしたらいいのだろう?」
 僕はただ話を聞き続けた。彼に対して明確なアドバイスができるような経験はない。そして、彼の哀しみを本当に理解することができるのは、やはり彼自身でしかないと思う。僕にできるのは、彼の話を聞くことだけだ。後はそれが彼の哀しみを少しでも和らげる行為であることを祈った。
 長い電話の後に、雨が降り始めた。予期せぬ雨だった。僕は彼女に会いにいかずに、彼の哀しみについて考えた。

 次の日、大学の授業が終わると、僕はレコードショップへと向かった。昨日、見ることができなかった彼女の笑顔が見たかったからだ。けれど、ひとつの時代が終わったように彼女の店のシャッターが降ろされていた。
 次の日も、また次の日も店を訪れ続けた。店は案内の張り紙ひとつなく閉ざされていた。電話帳で店の番号を調べて電話もかけた。けれど、冷たい女性の声がお決まりのフレーズを繰り返すだけだった。
「おかけになった電話番号は現在、使われておりません。恐れ入りますが番号をお確かめになってもう一度おかけ直しください」
 電話の向こう側の知らない女の声が店と彼女がどこかへ行ってしまったことを告げる。僕は何度も電話をかけ、それを身体に染み込ませようとする。

 突然失ったものに対して、人は何を受け止めることができるのだろう。それはある時にはなんの予報もなく訪れる。

 やがて、彼女が勧めてくれたレコードを僕は何回も繰り返し聴くようになった。それでもなぜ彼女がこのレコードを好きだったのかわからない。僕は彼女を思い出すようにレコードを聴き続けた。そしてある日、庭で燃やした。炎の為の燃料となってレコードは燃え続けた。そして白煙を吐き出しながらゆっくりと溶けていった。僕はそれを最後まで見届けた。後に残った灰だけが風に吹かれていった。ふと何処かで誰かが代わりに泣いているような気がした。
 時として誰かの傷がそっと心を潤すこともあるように、僕は彼女が好きだった。その笑顔と同じだけ彼女にも傷があったのだと感じる。けれどレコードが擦り切れるまで聴かれた時代は終わった。同じように僕に残ったのは彼女の記憶だけだ。歌詞を忘れた古い唄のように、彼女は僕の中にいる。


three
 彼は彼女の誕生日に指輪を贈った。
 1年前の彼女の誕生日に彼は思いを伝えた。彼は彼なりの迷いの果てに彼女へ電話をかけ、彼女は彼の言葉に”Yes”とだけ答えた。けれど、彼にはそれだけで充分だった。
 次の日から、彼らは恋人と呼ばれる存在になった。契約のような確かなものではないけれど、彼と彼女は誰もが過ごすべき素敵な迷いや葛藤や愛を交わし続けた。会えない時は電話で話し、会える日の最初から最後までをともに過ごした。やがて時が過ぎ、彼は彼女にプレゼントを贈った。そこには彼なりの様々な思いがこめられていた。それもまだ様々な、としかいいようのないものだ。

 不確かなものを確かなものにする為には、時間やお金や、継続し続ける思いや、ある種の諦めが必要だ。ほかにもあきれるくらい必要なものがある。もちろん彼も彼女もある時には間違いもする。けれどそんな間違いすら素敵だと思える日々をわかちあった。決定された未来のないことが、ある時には自由を与え、ある時には自由を奪った。

 彼女は貰った指輪を何かの約束のように大切にしようと思った。
 ふたりはまだ若く、日々を積み重ねながら未来を探し続けた。
 彼女はどんな場所に行くときにも、誰と会う時でも、その指輪を薬指にはめ続けた。彼女のある友人はそれを羨ましいと思ったし、また他の友人は、不自由だと思った。どちらにせよ、彼女の指輪は彼女の中で輝いていた。

 ある日、彼が贈った指輪を彼女は失くしてしまった。うっかりしたところのある彼女だから、それは仕方がないことだったのかもしれない。彼女は一生懸命、記憶を遡り、どこでその指輪を失くしたのか思い出そうとした。彼女が思い出すべきことは、指輪を失くした時から現在までの数時間のはずだった。けれど、彼女は生まれてから今にいたるまで過ごしてきた日々を思い出せるだけ思い出した。そして、何処にその指輪があるのかを確かめようとした。そうしなければならないと彼女は感じた。
 彼と次に会うのは水曜日だった。それまでに探し出さなければならない。彼女は突然、目の前に何の予報もなく台風がやってきたように動揺した。もし指輪がみつからなかったら、私たちはどうなってしまうのだろう?
 彼女は焦り、そして焦れば焦るほど、混乱した。泣きたい気分になった。実際に涙を流しもした。でも、泣いてもはじまらないことを彼女は本質的に知っていた。
 
 結果を言えば、彼女は失った記憶を取り戻すことができなかった。彼から貰った指輪も。けれど、彼女は自分で同じ指輪を買って自分の指にはめた。

 次の水曜日に彼女は彼と会った。
 彼に指輪が新しくなっていることを気づかれないか不安だった。でも、いつもと同じように振る舞わなければと思った。いつか、時がくれば彼女は彼に謝ろうと思う。もしかすると以前と何かが変わってしまうのかもしれない。それでも未来は現在と地続きに存在し続けるのだから。彼女はそう思った。

 彼女が今はめている指輪は自分で買ったものだ。でもそれは彼には今のところ秘密だ。



four
 2005年2月26日。僕はニュースをぼんやりと見ていた。
 気象衛星「ひまわり5号」がその役割を終え、その後継機となる気象衛星の打ち上げは次々と失敗していた。
 どれくらいの期間かわからないけれど、僕らが知る天気予報は、国産の「ひまわり5号」の寿命の問題により、いつのまにかアメリカの気象衛星の観測によって伝えられていた。けれど、アメリカの気象衛星もいわば、アメリカが使い古した中古であり、もうすぐその寿命を終えようとしていた。
 もし、打ち上げがまた失敗に終われば、今年の夏の天気予報はひどく不正確なものになるとニュースは告げていた。

 僕は自分で天気予報がどの程度の確率で本当に正確なのか、確かめたことはない。だから、予報なんて、当たれば幸運だという程度でしか考えていない。
 けれど、ニュースでは、この打ち上げが成功すれば、天気予報はそれぞれの地域単位でより正確に天候の変化を予測することができるようになるという。もしそれが実現したとしても、その成果は多くの人には気づかれぬまま、最近の天気予報はよくあたるな、と誰かがふと思う程度の変化なのだろう。
 こんな風に僕らの日々の向こう側で大きなプロジェクトや国家規模の計画が日常を支えている。
 僕はテレビを見ながら、この新しい気象衛星の打ち上げに関わった多くの人々の困難や、苦闘の日々について思いをめぐらせた。2度あることは3度ある、と何かの呪いのように、ことわざは言う。そしてまた逆に、3度目の正直ともことわざは言う。昔からの言い伝えは、ある部分ではいい加減なものだと思う。それは占いを信じようが、信じまいが、時が僕らを僕らなりの強さや弱さで未来へ運んでいくのと同じようにいい加減だ。

 いつも電話をかけると、きまって天気の話をする彼女がいる。乱れることのない冷静な声で今日の降水確率を教えてくれる。とても便利だ。電話の1と7と7を押せば誰でも話を聞ける。いったい何人の男女が1日に彼女に天気を尋ねるのだろう。けれど、僕はテレビの中の彼女よりもこの彼女のほうが何倍も好きだ。顔も姿もなく、感情もなく、必要なことを繰り返す声だけがそこにある。けれど、そんな彼女にも人生があり、喜びと哀しみがあり、苦難がある。多くの人々がそれぞれの問題を抱えているように。  彼女は自分が抱えている問題を微塵もみせず、僕に天気予報を伝えてくれる。だから、僕は時々、勇気をわけてもらうように、彼女に電話をかける。

 時代は様々な人が思い描く未来へ足を向けようとしても、ある時には彼や彼女や僕を置き去りにし、ある時には新しい恩恵を授ける。未来と、天気予報が正確になることは何の関係もないかもしれない。けれど、僕は思う。あの日、天気予報が当たったからこそ、僕は彼女の新しい一面を発見することができた。あの日、予報を聞くことができなかったから、僕は彼女を失った。そんな風に思う。

 1と7と7という番号を押すと、彼女はいつも不確かな未来を教えてくれる。それは本当には77パーセントの降水確率なのに、わかりやすいように80パーセントといってしまうような、ある意味では乱暴で、そんな曖昧な予報だ。僕は今、まだそんな未来を生きている。

 僕は自分が気象衛星になって、地球の周囲を自転に合わせるように周回しながら、多くの人にとって、ささやかな幸せをもたらす予報を告げるようになる夢をみた。
 2005年2月26日。新しい気象衛星「MTSAT-1R」はトラブルで打ち上げを1時間ほど贈らせた後、無事、宇宙へと飛び立った。この気象衛星は今年の梅雨の終わり頃には、「ひまわり6号」と名称を変えて、その寿命が尽きるまで日本の気候を観測し続ける。そして、その次にはまた新しい高性能な気象衛星が幾多の困難を乗り越えて、打ち上げられるのだろう。
 電話の向こう側の彼女はそんな雲の上からの情報を一定の時間帯ごとに伝えてくれる。ある側面では、彼女はそんな風に世界の一部となっている。そして、僕もそんな予報を受け取りながら、不確かな未来を確かな未来へ変えるために生きている。
 今日、天気予報をもう一度聞いた。もうすぐ、梅雨前線が日本の上空から去り、平年よりすこし高い気温で夏が訪れると、彼女は告げた。何パーセントの確率でそれが当たるのかわからない。暑い夏が来ればいいな、と僕は電話を聞きながら思った。



five
 もう、故郷には夏が来ているんだろうな。宇宙を漂いながらうっすらとした意識の中で、彼女はそう思った。周囲で輝く星々が死んだ魂の欠片のように身体を包んでいる。眼前にある地球の向こう側には、欠けた指輪のように三日月が輝いている。彼女は自分の死を思い、自分を死においやろうとした言葉の数々を思い出す。

 最初に覚えている記憶は母の言葉だ。幼い私に向かってこう言った。
「あんたが可愛いのは最初だけだった。なんで私の人生を奪うのよ」
 私は覚えている。
 次に思い出したのは、小学校の同級生の男子。彼はこう言った。
「臭えんだよお前。近づくなよな。半径3メートル以内に近づいたら殺すからな」
 次から次へと嫌な記憶が蘇る。私を殺した言葉が私を死へと近づけていく。
 思春期には、自分の汚物をみせてきた大人の男がいた。男は私の手を掴み、どこまでも私を追いかけた。そこで記憶は途絶えている。
 次に思い出すのは最初にセックスした彼だ。彼といっても彼は彼じゃなかった。彼のペニスをみた時、こんなものが私の中に入るのかと思った。全身が総毛立った。過去の嫌な記憶が蘇った。それでも我慢した。彼を好きだったから。そして、その後も私は彼に何10回も抱かれた。私はその苦痛に耐え続けた。最後に彼は言った。もう、賞味期限が切れたんだよお前、と。彼に捨てられたことを友だちに告げると、友だちはすぐに彼をベッドへと誘った。数日後、彼女がこう話しているのを聞いた。 「あいつって、セックスするたびに泣くんだってさ」

 結婚してやるからついてこい、と言った彼もいた。もう彼の子どもをひとりおろしていた。その時のことを覚えている。私は私の中に奇妙な金属の器具が入ってきて、私の中にいるいのちを殺したことを覚えている。それでも、彼の言葉を信じ続けた。もう私には彼しかいなかった。私は彼の言うとおり、住み慣れた街を捨て、彼とともに知らない街に行った。その街でふたり目の子どもをおろした。もう子どもを殺すことを何とも思わなくなった。彼のためなのだからすべては。けれど、彼はその後、数ヶ月で私を捨てた。私は知らない街でひとりになった。

 色んな言葉が私を殺し、私の幸せな記憶を浸食した。そんなふうに苦しんでいる私をみて、自分の幸せを確認する奴にはいちばん腹がたった。

 ある年齢がくると、私は仕事にも見放された。上司は、優しい笑顔を浮かべて、君はもう結婚する年齢だよ、と言って私の首を切った。私の首はその傷口から本当の血を流した。それでも死んでたまるかと思った。

 沢山の爆弾が街を焼き、多くの女、子どもたちが死んだ。男は無力だった。攻撃する側に人間はいない。画面の向こう側のボタンを押すだけだ。それだけで大勢の人間が死んでいった。私と同じように。

 此処は宇宙だ。もう苦しむ必要もない。けれど、帰る場所もない。彷徨いながらそう思った。

 無線機に、地上からの交信が届いた。
「おい、大丈夫か。聞こえているか? 新しい衛星の修理は無事完了した。特に問題なければ、予定通り太平洋に着水せよ。繰り返す。新しい衛星の修理は無事完了した・・・」
 ノイズ交じりの声が繰り返し呼びかける。その声を聞きながら、私は元にいた場所へ帰る方法を探す。けれど、元にいた場所ってどこだろう?

 私を生かした言葉もあったはずだ。
 彼女は再び記憶を辿りはじめる。やがて、彼女はつぶやく。
「あの海がもう一度みたい」

 彼女は重力に引きつけられるように、大気圏に突入した。そして太平洋の奥深くへと沈んだ。


six
 僕はやっとのことで彼女を海へ誘い出した。水曜日のことだ。
 彼女と出会ってから、何度も夏が来た。彼女は日焼けするのが嫌だとか、ダイエットに失敗したからとか、もうそんな年齢じゃないとか、おうちでゴロゴロしようよとか言って、僕の誘いを断り続けた。
 何度目かの夏かは忘れてしまったけれど、それでも彼女は僕の誘いに応じ、僕らはレンタカーに乗ってビーチへと向かった。あいにくの渋滞に海に着いたのは夕方だった。宿に荷物を置くと、海を眺める前にいつものようにセックスをした。
 ふたりで海を見たのは、もう真夜中だった。海の上には三日月がささやかながら、その輪郭を浮かべていた。いちばん近くの星までの距離って何メートルぐらいだろう? と僕は尋ねる。馬鹿じゃないの、と彼女は言う。
 海を眺めながら、この百年の間に死んだ人々と次の百年に生まれる人々のことを考える。今、その狭間を僕は生きている。父も母もそうして僕を産んだ。彼女もそうだ。

 僕らは砂浜に寝ころびながら上空を眺め続ける。そういや、最近、天気予報を聞いていないな、と僕は思う。脈絡のない話と、頬にあたる風と、波の音が心地よい。そんな時間をともに過ごす。彼女の薬指には古くなった指輪がはめられている。本物の指輪を買わないとな、と僕は決心する。

 あっ、と突然、彼女が小さく声をあげた。空にひと筋、星が流れた。
 永い間、僕らは沈黙を共有しあった。

「同じことを願えたならいいね」
 彼女は耳元でそう言った。

 そう遠くない未来に、彼女は僕を、私の給料袋と呼び、僕は彼女を、炊事係にしたり、洗濯係にしたり、掃除係にしたりするようになるだろう。もちろん立場はいつも入れ替わり続ける。時々は喧嘩もする。そんな、子どもの頃にみた父と母のようになっていく。
 やがて僕らはひとつの調べとなって世界を彩るようになる。そして新しい幻想を持つ彼女を世界に向けて産み出す一対の蝶つがいと化す。彼女はもう彼女とはよべない。そして僕らの彼女もやがてまたいつか誰かの彼女となるのだろう。
 だから永遠に、彼女といっても彼女は彼女ではない。


seven
 保育士が幼い彼女たちに言う。小さな街の夕方のことだ。天気予報通りに雨が優しく街を包んでいる。

 幼稚園の隣りには小学校と中学校が並んでいて、それぞれの校庭にいくつもの水たまりができている。小学生の男の子が傘をさしながら、水たまりを蹴飛ばして遊んでいる。跳ねた水を浴びた同級生の女の子が男の子に文句を言っている。男の子は女の子のことが好きなのに、そんないじわるをする。女の子は男の子が何故こんなことをするのかわからずに、跳ねた水をよけながら文句を言っている。耳を澄ますと、そんなふたりの長靴が雨水を跳ねる音が聞こえる。
 いつもと同じようにおじいさんと犬は公園で散歩をしている。ふたりはいつも一緒に過ごしている。小さな駅では、月末のせいか定時で帰路につくことのできたサラリーマンはいない。彼らは家庭を守るために今も仕事をしている。僕もそんなひとりだ。主婦たちは最近の天気予報がよく当たることをちゃんと知っていて、午前中に買い物をすませている。それぞれの家からは、夕飯のいいにおいがただよいはじめている。バスの運転手は丁寧な運転をいつも心がけている。どこかの店の店内放送からは、トラフィックニュースが流れていて、どの道が渋滞しているかを教えてくれている。その後に通常のニュースが流れる。そのうちのひとつのトピックスで、次の気象衛星の打ち上げの計画が発表されている。何でも次の打ち上げに成功すれば、予報の精度が飛躍的に高まるそうだ。番号の1と7と7を押せば電話の向こう側の彼女の声を聞くことができる。彼女が告げる予報は、そのうち100パーセントの確率で当たるようになるのかもしれない。そして、今も古ぼけたレコード店で働いている彼女に思いをよせている彼がいる。彼女と彼女の店は消えたりせずに、彼はレコードを燃やしたりしない。

「今からアルファベッドのおべんきょうをします。黒板にある言葉を指でさすから、みんなも先生のまねをして、大きな声をだしてね。それがこの言葉の読み方です」
 保育士は日本語でそう言うと、生徒に向かってネイティブに近い発音で次のように言った。

“Repeat after me?”

Back