KID A
♢
「神さまや仏さまは本当にいるの?」
少年は時々、まっすぐな迷いのない口調で尋ねる。もちろん少年の両親はそういう疑問のひとつひとつに丁寧に答えようとしてきた。わからないことを懸命に調べ、考え、少しでもためになる答えを与えようとした。時々は、自分がかつて少年や少女だった記憶を思い出し、自分の父や母が、いったいどういうふうに答えてきたのか思いをめぐらせた。そこには少年に対する親としての責任がある。しかし、少年の口調には嘘を許さない絶対的な響きが横たわっている。そういうまなざしに対して、父と母は大人の知恵をもっても確かなことを答えることができない。父と母にできることは、その本当の答えを自分自身の力で少年が知ることができるよう、せめて導くことだった。だから、父や母は、泣き叫ぶように真剣な少年の疑問に「自分で考えてごらん」と言った。
少年は、神さまや仏さまを自分が信じているのか、まだわからない。けれど、何か悪いことをした時に父が言う、「きっと神さまがみているのだぞ」という言葉は、少年にとってどことなく真実の響きがある。でも、そういう言葉だけで悪いことをやめることができない時は、父におしりをぶたれたり、真っ暗な家の外に放り出されたりして、報いを泣き叫ぶまで感じることになる。だから少年にとって、神さまや仏さまという善き存在に逆らうことは、相応の罰を受けることだ。恐怖はいつまでも少年の身体に深く残っている。
ある時には、眠らずにひと晩中、窓辺から星空を見上げて願う。そうしていると夜空の星のまたたきが、はるか遠くの世界から、かすかな希望をもたらせてくれるような気がする。空には月も輝いていて、真っ暗な闇の世界にいちばんの輝きを与えている。その光が少年の心を強く惹きつける。だからまだ眠ることはできない。窓の向こうには少年の家と同じような家が沢山ならび、その向こうには、見知らぬ世界が広がっている。ふつうの少年や少女なら、もう寝てしまっている時間。けれど、少年は願い続けている。何かわからない、心の渇望にまかせて。
心の中にある不安は、より強い願いへと昇華される。
しかし、少年の問いかけの答えが、神さまや仏さまによってもたらされることはない。生まれてきてこれまで、何度も願ってきたことの多くは、叶えられることなくいつまでも宙に浮かび続けている。沈黙がいつまでも闇夜に横たわっている。なぜ願いは届かないのか。少年は、父や母が言う神さまや仏さまの存在に、少しずつ疑問を抱くようになる。
♢
学ぶところにいく頃になると、決まりごとというものが教える者によって教えられる。悪いことをすると、両親の代わりに教える者が注意をしたし、悪いことをしていればまわりの子どもたちに嫌われる。だから、少年も悪いことはしないよう心がける。
けれどある時、決まりごととは何だろうと思う。父や、教える者に尋ねると、決まりごとは、みんなで決めた約束だということだった。けれど少年は思う。
「みんなが決めたことなのに、僕は決まりごとを決めていないよ」
少年は、そういう疑問を口にする。
教える者や、父親は「そういうことは、大人が決めるものなんだよ」と言う。母親は「学ぶところで、みんなで相談をして決まりごとを決めることもあるのだから」と言う。少年は、何かわかったような気持ちにもなったが、ものごとは、神さまや仏さまの真実と同じで、自分で見つけなければならないと思う。
少年は学ぶところからは、家へすぐに帰ることはない。友だちと遊ぶことが楽しいからだ。友だちとは、何でも自由に遊ぶことができる。少年が遊びを考えることもあれば、友だちが遊びを考えることもある。もちろん決まりもいくつか生まれたかもしれない。けれどそれは自分たちでつくりあげたものだし、とても自由だ。
けれど、少年はわかってくる。彼にはとても腕力ではかなわないし、彼女にはとても愛らしさでかなわない。教える者が教えることを、すんなりと理解できるものもいれば、理解できないものもいる。なぜ、自分には何もないのか。そう思うこともある。
あらゆるものの優劣が、教える者によって決められるようになると、さらに事態は難しくなっていく。
誰が誰より頭が良くて、誰が誰より頭が悪いか。誰が大勢の人間に好かれていて、誰が嫌われているか。誰に多くの友だちがいて、誰に誰もよりつかないか。
ある時には、自分がとても孤独だと思う。小さな世界の中ですら、誇れるものがない。そう少年は思ってしまう。
学ぶところには、いくつかの群れができあがっていく。誰かは群れに入ることができない。そして力を持つ少年と、力を持たない少年が生まれはじめる。力ある少年は、やがて少年たちの自由な決まりを意のままに決めはじめる。従う者だけが、集団の中に居続けることができる。
ある時には、少年は力ある少年に真正面から立ち向かいたいと思う。絶対にいいなりになどならない。しかし、この場所で生きのびていくにはとても危険だということも感じとっている。けれど力ある少年の側にいて、笑っているようなことだけはしたくない。
でも、少年には何もできない。立ち向かうことも、立ち去ることも。
夜になって家に帰ってきても、少年は悔しい思いが消えない。どんな言葉をかけるべきか。父と母は少年のそんな姿に何かを思う。しかし、なぜか心に届く優しい言葉をかけることができない。そして、いつものように時間がたてば機嫌をなおしてくれるだろうと思う。しかし、少年は家を飛び出す。ゆく先を月だけが照らしている。
♢
「僕を待っていたのかい?」
髮の長い少年が言ったのは、ひと言だけだった。けれど、それだけで少年は満足する。もうひとりじゃないと思う。
彼は、ほかの誰とも違う。
たとえば彼は、少年が読んだことのある本ならたいてい読んでいて、物語のいっぷう変わった解説を聞かせてくれる。そして必ず、「で、これより面白い話を読んだことは?」と囁きかける。少年のたどたどしい言葉もちゃんと、隅から隅までわかっているという感じで聞いてくれる。そして心の奥にある本当の願いもわかっているみたいに返事をする。
ある時には、「町に出よう」と言って、少年を店が立ち並ぶ通りへ連れて行く。植物店では、本の中だけでしか味わったことがない奇妙な植物について語り、果実店では、舌がとろけるような甘い果実をちょっとつまんでみせる。そして少年に「食べてごらん」と言う。
観るもの、味わうもの、感じるもののすべてが、変わっていくことに少年は驚く。
河のほとりで吹いた草笛は、どこまでもこの世界に響いていると思う。吹く風に前髪を揺らせて、髮の長い少年は楽しげにメロディーを紡ぐ。少年はどこまでもその旋律を追いかけようとする。ある時には、草原をふたりでどこまでも駆けていく。水のたまりに大きな雲が映っていても、おかまいなしに、たまりに飛び込む。水の中をどこまで潜っていけるか、ふたりは争う。けれど決して本当の争いはおきない。
ある時には、いつかふたりで行く世界の果てへの旅について話す。あるいはそれは世界の中心への旅なのかもしれない。少年たちにはまだわからない、限りない未来がどこまでも続いている。
穏やかな時の流れの中で、はじめて少年は、自分が生きていると思う。
♢
少年と、髪の長い少年は、草の上に寝転がって太陽を眺める。雲の上にしか太陽はなく、だから雲は時々、太陽を隠す。雲ひとつない青空の日には太陽はまぶしすぎて見えない。それはひとつの真理だと髮の長い少年は言う。
「輝くものほど、その本当の姿は見えない。僕らに見えるのは、輝きだけなんだ」
「輝きだけ?」と少年は聞き返す。
「そう。輝きだけ」
輝いて見えるもの。それは少年にとって無数に存在する。実際に輝いているものもある。光をあてれば輝くものもある。
「たとえば、純金なんかは輝いてみえるけど、あれはただ光を強く反射するだけなんだ。美しさの真実は、やっぱり光にある」
輝きを理解することもまた、真実を理解することなのだと少年は思う。
「ところで、この町でいちばん光が射す場所のことを知っているかい?」
光射す場所には、最初、何もない。ただ、澄んだ空気と光が射しているだけだ。髮の長い少年が言うには、光射す場所は、本当の願いを叶えるための場所だと言う。けれど少年には、本当の願いというものがわからない。
髮の長い少年は言う。
「本当の願いがわかったら、いつかこの光射す場所に来て欲しい。その頃には、今よりも光射す場所はうんと輝いているから」
髮の長い少年は、少年の記憶に残るように言葉を選んで話す。
「太陽の光は暖かいけれど、本当にその近くまで近づいてしまえば、僕たちなんて焼き消えてしまう。そういう本当の熱が太陽にはある。光射す場所の光もそうだよ。それはとても恐ろしい光でもあるんだ」
もし少年が今、光に包まれたならその光は何を照らし出すだろう。少年には、まだそういうことはわからない。
♢
少年はいつも友だちたちとの間で、自分に力がないと感じている。けれど髮の長い少年は言う。
「そういうのって誰にでもあることだよ。僕だって悔しい思いをいっぱいしている。本当に人と自分を比べることはしんどいことだ。けれどどうだろう。そういう人を何かを教えてくれる人だと思えば」
少年は言う。「教えてくれる人?」
髮の長い少年は微笑む。
「僕たちなんて、まだ何年も生きていない。だからわからないことがたくさんある。僕は君に伝えることができることもある。けれど僕も君からも多くのことを学んでいる」
「何を学んでいるの?」
「疑問を持つことは、いつか答えに辿りつくことができるってこと」
そう言われると、少年はとても嬉しくなる。僕にも、ただその場所にいるだけで何かを教えることができるんだと思う。
「本当はすべての人が、学びあえればいいと僕は思っているんだ」
髮の長い少年はため息をつく。
「けれど、誰もが何かをいつも教えてくれる存在だと理解している人は少ないよ」
哀しそうに髮の長い少年はうつむく。けれどその言葉に対して少年は力強く言う。
「僕はきっと君から多くのことを学ぶよ」
そう言うと、髮の長い少年は救われたように笑顔を取り戻す。
「ありがとう。僕たちはいつまでも学びあうことができる友だちでいたい。時間がどれだけ過ぎても。僕も君から学び続けるよ」
ふたりはそう語りあう。
♢
ある朝には、雨が降って、そしてそれでも太陽が出ている。
「絶好の日だよ」と髮の長い少年は言う。
「何が絶好なんだい?」と少年は聞き返す。
「いいから」
少年は、髮の長い少年に連れられて家を出る。町はずれの山の麓には、雲と雲の切れ間から虹がみえている。
「虹はいつもあらわれるわけじゃない」と髮の長い少年は言う。「そしてあの虹が生まれる場所へ行くことは簡単じゃない」
「虹はどこから生まれるの?」
「見たままさ。あの山の麓から虹は天へ繋がる道を作っている」
「まさか。そんなこと信じられないよ」
「みんな、そこまで行ったことがないからさ」と髮の長い少年は言う。
ふたりは虹をめがけて走って行く。走っている間に、雨は上がり、ふたりは濡れた前髪も気にせず、山の麓へと走って行く。町の人たちは、何が起きたんだい? という顔をしている。
ふたりは町の通りという通りを駆け抜けて行く。まるで風みたいに。近づけば近づくほど虹はどんどん大きくなっていく。七色の光と光の間には境界がなく、それらは本当に光が作り出した天空への道のように思える。
「きっと空には虹の橋を通ってだけ行くことができる別の世界があるはずだ」
髮の長い少年は、はしゃいだように言う。少年もきっとそうだと思う。
「もっと早く走らなきゃ」
「あの虹が消えてしまう前に」
ふたりは本当に速く走り続ける。そして風になる。町と町を吹き渡る風に。丘と丘を越える風に。世界と世界を越える風に。
しかし、その先には湖があって、虹はその遥か向こうにある。
「なんて大きな湖なんだ」と髮の長い少年は言う。
巨大な湖の向こうから虹は生まれ、少年たちは今のままではその先へは一歩も近づくことができない。
「この湖さえなかったら、きっと虹の橋をわたることができたのに」とふたりは悔しがる。
けれど、湖からのぼる虹はとても美しく、ふたりは虹の橋をずっと眺めている。
♢
森の迷路に迷い込んだ時には、髮の長い少年は声だけを響かせる。
「こっちだよ」
「いや、こっちだよ」
木々の中で、髮の長い少年の声がこだまする。どの声が本物で、どの声が間違った声なのかわからない。そういう迷いの森の中で、少年はどの声が本当の声なのか迷う。どの方角が正しい道で何をどうすればいいのかわからない。
「そういう時には、目を閉じるんだよ」
「そういう時には、直感に従うんだよ」
「いや、ちゃんと母親の言うことをきかなきゃ」
「けれど、それが本当に正しい言葉?」
声という声があふれ、道という道が閉ざされ、光という光は闇の中で沈黙している。
「虹の向こうなんか目指すからだよ」
「すべてがみえることなんてないよ」
「きっと僕が悪いのさ」
「きっと何かを間違ったのさ」
少年は、森の中を彷徨い、言葉に対して言葉をかえし、けれど自分が何を言っているのかわからない。いったい自分の声がどの声なのかも見失う。いったい何をどうすればいいのだろう?
少年は長い沈黙の後で言う。
「ねぇ、僕たちは友だちだよね。僕たちはお互いを必要としているんだよね?」
けれど、その声に髮の長い少年は笑ってこたえる。
「いいかい? もし僕がいなくなったら、一体どうするんだい?」
少年はどう答えていいかわからない。そしてうずくまる。
髮の長い少年が、森の中で少年を見つけた時、少年に何を語りかけても、少年は何の返事もしない。
♢
少年はすべてに心を閉ざしてしまう。髮の長い少年にすら。けれど髮の長い少年は、歌うように語りかける。
「君は笑えないと思っているかもしれないけれど、君は笑うことができる。君は怒れないと思っているかもしれないけれど、君は怒ることができる。君は泣いてばかりかもしれないけれど、いつも泣いているわけじゃない。そして何かを伝えることができれば、世界を変えることができる」
「どうすれば世界を変えることができるの?」
ようやく、少年は髮の長い少年に返事をする。
髮の長い少年は言う。とても力強く。
「僕たちが、僕たちのまま生き続けることさ」
髮の長い少年は語る。
「世界にはひどいものや醜いものが存在する。うんざりすることばかりだ。けれど、そういうものごとのひとつひとつに、ちゃんとそれは違う、って言うんだ。うんざりすることを続けるために僕たちは生まれたんじゃない。僕たちは生きている。生かされているんじゃない。生きているんだ」
「みんながそう言えるようになるかな?」
「そうなるよ。僕はそれを信じている」
少年もそれを信じようと思う。
「大勢の人が、それは違うって言うんだ。虹の向こうには、素晴らしい世界が待っている。これまでのようじゃない世界。うんざりしたりしない世界」
「そういう世界がどこかにあるのかな?」と少年は疑問に思う。
「そうじゃない。これから生み出すのさ」と髮の長い少年は微笑む。
「だって僕たちはわけのわかったふうに生かされているんじゃない。生きているんだ」
♢
ある時には、少年は髮の長い少年に連れられて、すべてがみえる丘を目指して歩いていく。そして町のはずれを流れる小川を越え、雑木林を抜けていく。谷間には、ちょっとした橋がかかっていて、今にも崩れ落ちそうだ。けれど髮の長い少年と手を繋いで、なんとか勇気を振りしぼる。
とても暗いトンネルもある。誰が作ったのかわからないトンネルは、少年たちの間では、いつも噂になっている。「きっとあそこには幽霊が住みついているんだぜ」。噂は少しも信じていない。けれど実際に入り口に立ち、暗闇の本当の暗さを感じると、話は本当なのかもしれないと思う。
けれどそういう時には、髮の長い少年が、歌を歌ってくれる。その歌には、なんとなくユーモラスで元気が出る響きがある。少年も一緒になって歌う。ふたりの声は、トンネルに反響し、まるで大勢の子どもが歌っている合唱のように聴こえる。なにより歌を歌っていると、やがてどんな暗闇も怖くないという感じがする。
緩やかなカーブを曲がると、ずっと遠くだけれど、小さな光が輝いていて、出口があることを教えてくれる。髮の長い少年はますます楽しそうに歌を歌うし、少年も必死に歌い続ける。
出口の光は、まるでお日さまのなかに包まれているみたいに温かい。少年は、その温かさと、繋ぎ続けている手の感触がまるで同じみたいだと感じる。
そして町のすべてが一望できる丘の頂きに辿り着く。ここから見渡すと、自分たちの住んでいる町は、なんて小さいのだろうと思う。
家の近所のおばさんの家にもうすぐ子どもが生まれることや、学ぶところの裏側にある家に住むおじいさんがもうじき亡くなることや、穏やかな野原にやがて家が立ち並ぶことがわかる。それでも風は吹き続けているだろうということがわかる。町の向こうの彼方に海が広がっていることがわかる。いつか空がとても地上に近づくことが理解できる。
「いつか町を出るのなら、今日のことを覚えておいて欲しいんだ」と髮の長い少年は言う。
「どんな暗闇も先が見えない場所も、いつか通り過ぎることができるんだってこと。そしてその先には、これまでにみたことのない世界が待っている。そういうところに辿りつくと、こんなふうにこの世界はなんて小さいのだと思う。けれど、僕たちはそういう町で暮らしているし、それがとても大切だって思う」
少年はとてもびっくりする。町を出ることなんて考えていなかったし、世界の果てまでいくなんて、お話の中だけのことだと思っていたからだ。
けれど、髮の長い少年は言う。
「もし、こんなふうにすべてがみえる場所があるなら、その場所へ行きたいと思わないかい?」
少年はとても迷う。
「今はわからないよ。先のことなんて」
けれど、髮の長い少年は優しく微笑む。「いつか君は真実を知りたいと願っただろう? だから僕は君がいつかこの町を旅立つと思う」
髮の長い少年は言う。
「けれど、忘れないで欲しい。僕はこれからもこの町にいるし、いつでも君のことを待っているから」
少年は髮の長い少年の言葉を忘れないでいようと思う。
♢
最後に、髮の長い少年はこの町でいちばん光射す場所へ少年を連れていく。そこには今もとても透明な光が差し込んでいる。穏やかな静けさがある。空気がとても澄んでいる。
「願いごとがわかったかい?」と髮の長い少年は言う。
「すべてのものに力を与えるのは、信じられる力なんだよ」
「そして信じる力でもある」とつけ加える。
誰かが何かに魅せられて、魅力を感じたなら、魅力を感じられたものには力が生まれる。魅せられる者こそが、魅せる者に力を与える。
「それは愛なんだ」と髮の長い少年は言う。
つまり、光輝くものは、わたしたちによって光輝いている。
わたしたちなしに光輝くことなどできない。
「それが力の真実なんだよ」
どういう意味なのだろうと少年は思う。けれど、髮の長い少年の微笑みは永遠に心に残る。
♢
ある時には、少年はすべてがみえる丘で祈りを捧げている。
誰のためなのか。そういうことはわからない。けれど、いつか髪の長い少年と感じた世界の広がりや奥行きの感覚を、もう一度確かめたいと思う。
時々は、少年は何かを感じる。
それは、時には小さい動物が野山を這いずり回る、そういうささやかな音だったりする。けれど、普段なら気づかずに見過ごしてしまう、雨が降った後の雫のひとつひとつや、獣たちが人々を恐れて気配を殺しているような静けさや、町がとても流動的に変化を続けていることを感じると、祈りは、確実に少年の中に何かを与える。それはどこかから舞い降りた天の恵みのようだ。
そういう時に、ともに時間を過ごした、髪の長い少年の言葉が響く。
—気づいたかい?
彼の言葉はいつも自分の深く内側に存在する。
彼は本当に存在するだろうか? それはわからない。誰もが交わす言葉の中で思い描いたひとつの夢なのかもしれない。
けれど、少年はあの髪の長い少年がすぐそばにいたという懐かしい感触を残して、自分はここにひとり立っているという現実を思い出す。
そして、あのすべてが見える丘だった場所は、少年が自分自身の魂の奥深くや、まだ見ぬ世界の広がりについて考える時に、今もすべてを感じる場所としてある。
少年は思う。自然は自分が生まれるずっと以前から大地とともに、風雨とともに存在する。季節がめぐっても変わらずそこにある。そういう確かさに、少年は耳を澄ます。そしてそっと囁く。あの、いつもの素晴らしい感覚を与えてくださいと。
時として、その願いは果たされることはない。特別な時間は、いつも訪れるわけではない。けれど、時には、その世界の確かな広がりへ、まるで虹の橋がかかったみたいに連れていってくれる。やがて時間のすべてが、目の前で踊りを踊っているみたいに自由に変化するように感じられる。そういう時には、すべてが温かい。それは言葉にするにはとても難しい広がりを有している。当然の帰結としての現在と、ものごとのはじまりである過去と、そして未来を感じる。
—言葉で表すことができるものごとは、そのほんの限られたことだけだよ
言葉は、多くの世界の声のささやきのひとつだ。そういう声の、ずっと向こう側へ飛び立つ。そして、そのすべてと同化し、自分が世界を感じるその鮮やかな感覚にすべてをまかせる。
その中で、世界は少しずつ虹の向こうの世界へと変貌していく。
♢
その丘の頂で、少年は獣のように感覚を尖らせていく。鋭い矛のように。まばゆい光のように。そして少年が感じられる世界のはるか果てでは、古き王たちが、言葉なき命令を発している。その力を感じとる。
力ある少年たちは、その言葉なき命令を自分のことのように感じとっている。その一部となっている。
自分に力があるのは、自分に力があるからではなく、すべて与えられたからだ。そう感じることで、やっと少年たちは力ある少年となる。力は古き王たちに認められたから行使することが許される。もちろん、その力は、時々は暴走する。より弱い者へと向かう刃となる。しかし、古き王たちの言葉なき言葉は、まるで自分の魂の奥底から湧いてくる魔法のように、やがては少年たちを素晴らしい魂の持ち主へと変化させていく。そしてその中から、守り続ける人々が生まれる。村や町を守り、愛するものを守り、規則を守り、そして秘密を守る。それはやがて世界を守ることになる。彼らは世界の一部であり、そしてただの人でもある。そういうことを少年は感じとる。
少女たちも、愛することを本能的に知っている。愛されてきたことや、愛されなかったことは、それがどうあっても愛することに繋がることを知っている。そしてそれも古き王たちの言葉なき命令である。
彼女たちは、その奥深いところで、古い王国を蘇らせる新しい生命を育むことを命じられている。それは道という道をどう曲がり、どこへ行こうと変わることのない真実であるかのようだ。彼女たちが育てているのは、自由な魂ではなく、世界の新しい従者たちだ。彼女たちがそう望もうとしても、そう望んでいなくても。
傷ついた時には、歌い手たちが歌う歌を、自分の歌であるように歌う。悲しい時には、幸せになるためのあらゆる物語に身をまかせる。時にはそれでもどうしようもない。しかし、古き王たちの命は、誰かがきっと誰かを救うようにできている。
少年はすべてがみえる丘で、そういうひとりひとりのことを感じる。もちろん、少年がみることができるのは、その限られた生の、その想いのほんの一部だけだ。少年の力もまた限られている。そして感じることができる世界は、どこまでも古き王たちの力が届いていて、自分も力ある少年たちが、やがてそうなっていくように、世界を守るひとりとならなければならないと感じさせられる。古き王たちの力はとても強大で、そして人々を浸食する。
けれど、それがひょっとすると目指すべき者なのかもしれない。そう少年は思いはじめる。けれど、そんな時には、どこか魂の奥のその深淵から、髪の長い少年が語りかけてくる。
―そう簡単なことじゃないよ。
その通りだ。世界の一部となって生きることは、それでもきっと簡単ではない。
♢
すべてがみえる丘で感じることができた素晴らしい憧憬は、古き王たちの力で、力を求める渇望へと変わる。
あのまばゆいばかりの景色はどこへ行っただろう。髪の長い少年と感じた素晴らしい世界は、灰色の焦りだけが募る場所になってしまう。
すべてがみえていたという感覚は、ただの幻だったのだろうか。
丘はただの丘に戻り、場所はただの場所に戻り、虹はただの虹になる。世界は変わらずそのままにあり、定められた歩みのままに、身体だけが成長していく。
あらゆることから学ぶことができるその知恵は、古き王たちの思うままに変えられる。それは学んでいるのだろうか? ひとつの方向へ走ることだけを求められ、走り続けるその体力を求められ、言われるままに少年は走る。
この手を自分の思う通りに動かしたい。この足で空を飛んでみたい。思いはあっても、それは定められたことではない。
定められた通りに生きなければ、力は与えられない。それは無力と同じだ。それは悲しみと同じだ。そしてそれは牢獄と同じだ。少年の中に怒りや憎しみの感情が渦巻く。なぜ生まれてきたのか。そういうことを思う。
しかし、古き王たちの言葉なき言葉は言う。
—誰もが悩み苦しみ、そしてやがてという時間を手にするのだ。
あるいはそうなのかもしれない。けれどもし、明日という時間がなくなってしまえば、何のためにここにいるのか。
♢
やがて町はどんどん古びはじめていく。静かな崩壊が時間とともに町を襲う。建物はかつての輝きを失い、くすんだ錆が表面に浮き出てくる。住んでいる人々も老いていく。きらびやかだった町の影が色濃くなっていく。そして、多くの少年や少女にとって、町の外の世界が憧れの場所になる。少年たちは楽しげなその外の世界へ惹かれる。自由に生きてみたい。旅人のように。そしていつしか町を離れる少年や少女があらわれはじめる。胸に固い決心を抱いて。そしてその町の中央にある針のない時計塔の下で故郷に別れを告げ、ひとり、またひとりと去っていく。
成長した少年たちにとって、町は古い世界そのものだ。そして父と母は、その町の想い出の中に、ただ佇み続けるだけのように思える。町は、多くの少年や少女を育んできた。けれど若い魂が感じるのは、その不吉な死の匂いだ。
此処にいても何処へもいけない。
そして多くの少年や少女がすべての古く老いたものたちに別れを告げていく。
♢
針のない時計塔の下で、ギターを弾いている少年がいる。誰も聴いていないのに、その少年はギターを弾き続けている。ある時に、少年はその光景に魅せられる。その歌に古き王たちの言葉なき言葉とは違う何かを感じる。いつの間にか、彼の目の前にいる。足が勝手に動いたのだ。
「久しぶりだな」そうギター弾きの少年は言う。
最後に彼と会ったのはいつだっただろう。もうずいぶん話していなかったような気がする。
少年は彼と挨拶を交わす。
「ずっと昔のことだけれど、お前をなぐって悪かった。俺もあの時は、力のある少年だったからさ」
彼は力のある少年だった。もうずいぶんと前に。
ギター弾きの少年はそう言うと、ギターを響かせる。
「今ではもう、力のある少年じゃない。俺はギター弾きの少年なのさ」
少年は頷く。
「力を失ったのですか?」
少年は問いかける。
ギター弾きの少年は言う。
「力のある少年というのは、力がある少年がなるものさ。俺にはきっと古き王たちが望んでいる力なんてなかったんだよ」
ギター弾きの少年はそう言うと肩を落としてみせる。
「なかなかいいものだったよ。力のある少年であることは。みんな俺より力がないようにみえる。自分が一番で、他のやつらはみんなはるか下にいる。もちろん、古き王たちには逆らえないけれど、それでも力があるということはすばらしかった」
そう言うと、かつて力のある少年だったギター弾きの少年は、ギターに合わせてハーモニカを吹きはじめる。
それは哀しい音色をしている。
けれど、今の彼からは親しみのようなものを少年は感じる。
「ギターを弾くのはいいものだよ。誰も傷つけずにすむ。力のある少年だった頃は、ずいぶん色んな少年たちを傷つけた。そういうのってちょっと違うとは、どこかでは思っていたんだよ。きっと心のどこかではね」
少年はその言葉に何かを思う。ギター弾きの少年は話を続ける。
「ま、ギター弾きの少年のほうが気楽だ。何も力のある少年であることだけが人生じゃない。それに今では俺の中には目指すべき者がいる」
そう言うと、ギター弾きの少年は、またギターを響かせる。
「今はまだ、目指すべき者のようには弾けない。目指すべき者は、本当に上手くギターを弾くんだ。俺は力のある少年でなくなった、空っぽだった時期に彼に出会った。彼の演奏は本当に凄いよ」
そう言うと、ギター弾きの少年はしばらくギターに夢中になる。彼は言う。
「目指すべき者が言うには、音楽は心の音なんだそうだ。俺の心が完全に、力のある少年だったことを忘れて、本当にギター弾きの少年になれた時に、俺は救われるのだそうだ。そう目指すべき者は約束してくれたよ」
少年はただ黙って話を聞いている。
「俺はそのうち町を出る。こんな古い町じゃ、ギターがいくら上手く弾けたってどうしようもないんだ」
そう言うと、ギター弾きの少年は歌を歌いはじめる。
「何年もギターを弾き続ければ、俺の心もちょっとはましになるはずさ。その時には、きっと本当の歌が歌えるんだ。俺はそう信じている」
少年は黙ってギター弾きの少年と別れる。
♢
哀しい別れは、いつもその町の中央の針のない時計塔の下で起きる。
少年は、針のない時計塔の下に佇む少女を前に、何も語りだせずにいる。まず、最初に何を話せばいいのだろう。目を合わせることもできない。そっと見る彼女の横顔はまるで考えていることがわからない。怒っているのか、退屈しているのか、何も考えていないのか。わからない顔をして、ただ黙っている。けれど、彼女がそういう顔をしているのは、きっと僕のためなのかもしれない。時々はそう思う。しかし少女にとって、少年は多くの少年たちのうちのひとりでしかないのだ。けれどもし、最初のひと言を語りかけることができたなら、運命は変わるだろう。
少年が求めているのは、心のつながりだ。その魂の奥の。ある時には、世界のすべてをみることができたとしても、その少女の心の内側は秘密のままだ。彼女ひとりのことさえわからない。いったいそれで、世界の何がわかるだろう。
そして少女の心は隠されているからこそ、少年の心をとても強くうつ。心臓は脈打ち、その瞳を見つめることができず、変わらず最初に話しかけるべき言葉を探し求める。もし、言葉なく心が伝わるのなら、彼女にならすべてを捧げてもいい。とても固い岩のように決意している。けれど、その固さは、自分の心の固さと同じで、どれだけその両手で動かそうとしても、ぴくりとも動かない。そこには恐怖がある。自分が自分であることが、否定されるかもしれないという恐怖が。そこには古き王たちがかけた呪いがある。少年はその短い距離の最初の一歩を踏み出そうとする。その両足は、いつか世界の果てまで歩いていくことを望んでいる。それでも彼女を前にしては、一歩も歩みだすことができない。
愛するということは、少年にとっては世界の謎そのものだ。そして、彼女はその謎ごと抱えて、何も話すことができない少年の前から、何も言わずに去ってしまう。この町ではない何処かへ。
彼女がいなくなってから、少年は思う。最初の言葉をみつけることも、必要なことだ。僕が僕であること。そのことをひと言で表すことができる、その最初の言葉を見つける。もし、その言葉を見つけなければ、少年と少女は永遠にその針のない時計塔ですれ違うだけだ。そういう運命を変えるためにも。そう少年は決心する。
♢
目指すべき者は、ありとあらゆる姿をしている。その声は聴こえるものにしか聴こえず、その姿は見えるものにしか見えない。やがて、少年は目指すべき者を感じはじめる。多くの別れの悲しみが目指すべき者の存在を感じさせるのだ。
町を去って行った少年たちは、目指すべき者を見つけたのだろうか? あるいはそうかもしれない。
少年は闇夜が明けたその消え入りそうな月の下を走り続ける。一歩でもその先へ近づくために。
夢の中では、大きな光が映し出す未来の中に少年はいる。その光に触れていると少年の身体は熱くなる。もっと速く、もっと強く。そうあらねばならないと思う。きっと今のままでは、どこへも行けない。
外の世界には何が待ち受けているのか。それは希望かもしれない。それは絶望かもしれない。
構わないと少年は思う。僕は大切な人たちを失ってしまった。彼らと再び出会うのだ。
町を去って行った者を追いかけるように、少年はずっと後になって旅立つ。光の中で感じた未来を追いかけ、別れた者たちと再会し、目指すべき者に出会うために。
その町の針のない時計塔の下では、新しい別れがある。新しく見送られるのは少年自身だ。
誰かがやってきて、少年は夢を語る。それはまだとりとめのない言葉にできないことを多く含んでいる。けれど少年の中の決意は固く、誰もそれを押しとどめることはできない。
誰かは少年のために涙を流す。その先の運命のことを思う。そのように涙は流される。
それでも少年は旅立つ。そしてまだ見ぬ世界を見る。
♢
少年は故郷の町を出ると、一歩、一歩と、その固い地面を確かめるように歩き続ける。町の灯はだんだんと少なくなっていく。そういう灯火のひとつひとつに、かつての自分が過ごしてきた温かい幸福の匂いを感じる。そして髪の長い少年のことを思う。その灯火のひとつひとつが消えてしまうごとに、大事な記憶が、ひとつ、またひとつと消えていってしまいそうな気になる。
けれど、それは時としてはとても重いおもしのようにも思える。そういう重荷をひとつひとつその灯火を通りすぎるたびに忘れようと少年はつとめる。そしてその代わりにその失くなってしまった心の場所に新しい希望をつめこむ。自分がいつかとても素晴らしいことができる人間になるために。
やがて町を遠く離れると、町の灯がずっと遠くで、ずっと小さく、仄かに輝いていることがわかる。しばらく少年はその故郷の小さな灯火を眺める。そこに今も住んでいる父や母やもっと多くの人たちのことを考える。
「行かなきゃ」
そう少年は何度も思う。けれど、目はずっと向こうを振り返っている。
けれど、ある時が来ると、少年には覚悟のようなものができている。新しい希望で、この今の気持ちをかき消してしまうという気持ちが。
そして、少年は本物の旅人となる。
♢
故郷を旅立ってから、いったいどれくらいの時間が過ぎていっただろう。切り立った崖の上から眺めた緑の稜線。青い海原。昇り沈む太陽の光は、雲を鮮やかに彩り、いつ果てることもない孤独な旅をそっと慰めてくれている。地平線まで広がる砂漠の砂は、風に舞い、少年の確かな痕跡をかき消す。それでも歩き続けることは、確かに自分の力で生きているという実感を少年に与える。
いくつもの古くなった町の廃墟を眺めてきた。その場所にあった人々の生活の匂いに、故郷からの風を感じながら、それでも少年は前へ進むことを諦めない。
人々がまだ住んでいる村や、町も訪れる。けれど自分があまり歓迎されていないと感じる。小さい子どもたちの親たちは、広い世界がどうなっているのか知りたがる幼子たちを、そのささやかな家に閉じ込めている。古き王たちの命に従い、ささやかな自分たちの暮らしを守ろうとしている。だから、少年は、そういう村や町をただ通り過ぎることしかできない。
旅人たちがすれ違うこともある。出会いの多くは水を飲むための小さな川のほとりでだ。そういう場所で交わされる言葉は、目指すべき者の話であることが多い。彼がどこにいて、何を考えているのか。旅立った人々の多くは、少しでも彼に近づくために、彼が導く場所へ近づこうとしている。けれど、誰もその場所が本当はどこにあるのか知らない。
「俺は、結局のところ、彼がどこにいるのか知らないんだ」
旅人のひとりは、そう言うとため息をつく。「どこまで歩いて行っても、ただ自分の影があるだけなんだ」
そういう言葉を聞くと、少年は自分が進むべきその先に、まるで希望がないように感じる。
旅人は見てきた世界について語りながら、やがて眠りにつく。少年はその側で静かに月を見ている。
幾日か、一緒に旅をすることもある。そういう時には、ひとりではわからなかった旅の知恵を旅人たちから教わる。そのひとつひとつは生きていくための叡智の結晶だ。
砂漠で水を欠かさず摂取する方法。海の魚を効率よくとる方法。野山に咲く草木から薬を作る方法。生きていくには、そういうひとつひとつの知恵が必要になる。
時には故郷に帰りたいと思う。温かいベッドに横になり、いつまでも眠り続けたい。けれど、そういう思いをふりはらい、足だけを前へと動かす技術も身につけた。目指すべき者が与える光を、旅の途中でも見失わないために。
少年はその長い旅の中で、いちばん大事なことに気づく。それは信じることだ。幾多の困難がある。変わらない景色にうんざりする。それでも前へ進むには、信じるしかない。けれど一体何を?
そんな時に、最初に、髪の長い少年とすべてがみえる丘へ歩いた道のりを思い出す。長いトンネルがあり、崩れそうな橋があった。それは少年がもっと少年だった時には、険しい道だった。けれど少年は髪の長い少年の導きを信じていた。彼がいれば、それだけで良かった。だから、すべてがみえる丘にたどり着くことができた。
少年は、髪の長い少年のことを思い出す。
そして幼き日に歩いた道のりを、今、また歩いていることを理解する。
「きっと辿りつくことができる場所がある」
そう少年は何度も呟く。そしてそこには目指すべき者がいるのだ。
熱い太陽の日差しの中で、少年は倒れそうになる。意識はもうろうとし、ただ信じることだけで足を前へと動かしている。少年は思い浮かべる。そして歌を歌う。髪の長い少年と歌った歌だ。その歌を繰り返し歌う。
すると、すべての困難が少し和らぐ。引きずるようにしか歩くことができなかった両足が蘇る。
この道の先には、彼がいる。
意識が途切れ途切れになりながらも、少年はとても強く願う。もう一度、人と分かち合いたいのです。そう呟く。
少年が何かを完全に信じることができた時、少年はやっと何処かへ辿り着く。
♢
辿り着いた場所には、多くの少年や少女の魂を宿す者たちがいる。旅立った者たちがいつしか寄り添い、寝食をともにし、新しい祭りを催し、できた村だ。だからその村には決まりというものがない。新しく村の一員となった少年のようなものでさえ、ひとりの人間として扱われる。そしてすべての住民たちは目指すべき者を信じている。彼の存在が少年や少女を導き、この場所に誘ったのだ。
村のあちこちには不思議な実がなる木が生い茂り、住人たちはそれを料理人に料理してもらう。ある時には、そういう晩餐の風景は、画家によって抽象画になったり、印象画になったりする。その絵から閃きを受けた音楽家は、新しい音楽を作り上げる。そしてその新しい音楽に合わせて、踊り子たちが新しい踊りを踊る。そうして夕食の時間の後には、宴がはじまる。人々は宴をどこまでも盛り上げる。そういう祭りの風景は語り部たちによって物語となる。人々はその物語を読み継ぎながら、眠りにつく。眠りにつく前には愛を交わしあうふたりもいる。けれどあまり夜遅くまで愛を交わしていると、その愛の叫びが誰かの目覚めになったりする。人々は魂を分かち合い、生活を共にし、やがて来る目指すべき者の光臨を待っている。
いつか目指すべき者がやってきて、人々に新しい祝福を与える。この村に住む多くのものはそう信じている。約束の時が訪れれば、相反する様々な者は融和するのだ。
すべての光を消してしまうような濃い霧と雨がやってきたとしても、それでも人々はその時が訪れることを疑わない。彼らは旅によって信じる力を手にしている。そこに住む者は夜の夢の中に生き、青白い朝を迎える者であり、昼には多くの仲間のために自らを捧げる。中には己の身体を人々のために捧げる少女たちもいる。けれどこの村ではそれは尊い行為だ。彼女たちは人生のその春のようなひと時を、祈るように男たちに捧げる。それは間違いなく愛だと少年は思う。だから、少年もそういう女性たちに母に抱かれるように身をまかせる。
「青は夜の色、海の色、空の色。深く冷たい、悲観と不幸の色」
交わりが終わった後で、清らかな娼婦は、そう少年に語りかける。
「じゃあ、司祭に頼んで、この村からすべての青という青をなくそう」
少年はそう言う。あらゆる悲しみをすべて消しさることが正しいと少年は思っている。
清らかな娼婦は言う。
「世界から青空は消し去ることはできないわ」
「そうだね」と少年は笑う。
朝になると、朝なのに画家たちが絶望の色とは何か話をしている。
「やっぱり黒色だろうか」
「いや、純粋な黒色は美しい。それとは別の色だと思う」
「それは検討の価値がありますな」
少年はそういう話を聞きながら、料理人が作る食事を食べる。
「ねぇ、青の瞳の料理人。絶望の料理なんてのも作れるのかい?」
青の瞳の料理人は言う。
「わたしが目指すのは、人々に幸せを与える料理。絶望の味がする料理なぞ、作ってみたいとは思いません。それはとても美味しくないと思うので。しかし、あなたが望むなら、そういう料理も作ってみせましょう」
朝食が終わると、花かごを持つ踊り子たちが朝に咲く花を多くの人々に配っている。
少年はその朝に咲く花の匂いをかぐと、新しい朝の匂いで気持ちがいっぱいになる。
「ありがとう」と、少年は花かごを持つ踊り子たちに言う。
そういうと彼女たちは、まるで双子のように揃った美しいお辞儀をする。そしてくるくると美しく踊りながらほかの人々の元へ去っていく。彼女たちは朝に咲く花のように美しいと思う。
哲学者たちは、外見の秩序は精神を押さえつけるものでしかないという話をしている。少年は意味がわからなかったが、それでも何か哲学的な雰囲気がすると思う。
道化師たちは、どうすれば自分たちが道化にみえるか、道化になる練習をしている。けれど舞台にたてば、そういうふうに考えていることなど微塵も感じさせない見事な道化になっている。少年はそういう道化師たちの表と裏に思わず笑ってしまう。
白い太陽の照りつける高原の強く苦い香りの中で、少年は羊たちを追う。そして羊たちのその美しい毛並みを撫でる。羊たちが眠ってしまうと、その美しい毛並みから、幾束の毛を分けてもらう。それを集めて裁縫人に渡す。そうして少年は新しい衣服を手にする。裁縫人は、衣服を作りあげる前に、少年の身体の寸法を計ったりすることはない。少年の頭から足の指先までをじっと見た後に、目を閉じて集中すると、ひとつ質問をする。
「流れる衣がいいか。それとも、透明な衣がいいか」
少年はその質問に直感で答える。すると、少年のためだけの美しい衣が出来上がる。
名前をつける者たちは、いつもこの村の名前について思案している。
「美ゆえに美しい村がいいか。あるいは本物の夢が集う村がいいか。あるいは素晴らしい孤高の村がいいか」
そういう時には少年は何も言わない。少年には、少年だけのこの村の名前があったから。
村に集う者たちは、その多くが芸術家や政治的反逆者、詩人や放浪者である。古き王たちの力はここでは無力だ。古き王たちの力に抗う者たちがここに集まっている。
その村の中心には魂の樹がある。名前をつける者たちがそう名付けたからその樹はそういう名で呼ばれる。
けれど詩人たちは象徴なのだと言う。
「そこにあるが、そこにはない。それが魂の樹。それはうつし身。湖面に映る私たちの魂の連なりとして。その未来の予言として。あらゆるものがその樹に宿っている。その内側にある。はるか時の彼方に最初の芽吹きがある。そして枝は分かれを繰り返す。複数の選択を同時に育みながら、あらゆるものをそのすべてとして育つ。それが魂の樹」
少年は、そういう詩人の言葉を聴きながら魂の樹をみる。その樹はもうはるか昔から生きているのだろう。その根はどこまで深いのだろう。そしてどこまで育つのだろう。そういうことを考える。そうしていると、世界の広がりと深さが感じとれる気がする。
魂の樹の向こうで夕陽が沈み、月が輝きだすと、いつしか多くの者たちが揃ってその樹に思いをはせている。そういう時に、人々はあらゆるしぐさと言葉で祈りを捧げる。
少年は眠る前になって思う。忘れられた夢の村の魂の樹。それは少年たちの魂でもある。
♢
祈りを捧げる少女はその村で人々の夢をみている。そのひとつひとつに思いを捧げ、その夢が成就することを願っている。少年が知る限り、彼女は純真そのものであり、汚れのないものである。人々の言葉の隅から隅までを信じ、そして願う。彼女は自分のために何かを祈ることはしない。それは彼女が自分に課していることだ。
彼女が耳を傾け、その心を聴くしぐさひとつだけで、彼女の生きる姿勢はわかる。彼女は耳をすませてくれているのだと。だから、多くの人々の口からは積もり積もった思いが溢れる。多くの人々は彼女の前で、その自分の闇の部分を吐露する。自分がどれくらい愚かしく、悩んでいるか、その生きていることの内側にある困難を口にする。そして彼女はそういう苦しみを多くの人と分かち合う。そこにある汚いものをそのまま受け入れる。
祈りを捧げる少女は、少年の前に佇む。そして少年が語りはじめる言葉を待つ。けれど、少年は故郷で別れた少女の前でそうであったように、彼女の前では自分のことを話せない。
代わりに、少年は青い瞳の料理人のことを話す。彼女はその話を黙って聴いている。
「青い瞳の料理人は、目指すべき者に出会ったと言っていた。彼は昔、その青い目のおかげであらゆる女性に触れた。けれど、だからといって彼は誰かを幸せにすることができたわけじゃないんだ。そういう交わりのひとつひとつは、その喜びのぶんだけ、彼女たちに悲しみを与えた。青い瞳の料理人は、彼が少年だった頃、そういう過ちをおかした。けれど、それは過ちなのかな?」
少年はそう言うと、彼女の意見を待った。
「私にはそういうことはよくわからないのです。けれど彼はそういう行為を続けなかったのでしょう?」
少年は聞いた話だけれど、と少女に言う。
「そういう行為を続けていると、彼の前に目指すべき者が現れた。目指すべき者は、彼にとても美しい料理を出してみせたそうだ。それはどんな女性よりも甘く、どんな女性よりも彼を惹きつけた。けれど、目指すべき者は、一度しか、その料理を彼に与えなかった。彼はその料理が与える幸福を人と分かち合いたいと思った。そうすれば愛する多くの女性たちをみんな幸せにできるから。そして彼は青い瞳の料理人になった」
少女は尋ねる。
「彼の料理はとても美味しい?」
「彼の料理はとても美味しいよ。けれど彼は言うんだ。こんなんじゃ、まだ多くの人を救うことはできないって」
すると、少女は何か知らない国の言葉で祈りを捧げる。
その言葉を聴いていると、意味はわからなくても、本当の祈りの力がわかるような気がする。
祈りを捧げる少女は、少年のためにも祈りを捧げてくれる。彼女が祈ってくれていることだけがわかる。けれど彼女のその心の内側はわからない。
少年は言う。
「僕には君のことがわからないんだ」
彼女は、その言葉を聞くととても嬉しそうな表情を浮かべる。けれど、すぐに真剣な顔になって、何かのまじないの言葉を唱えはじめる。
♢
その村に住む鋭い画家は、清らかな娼婦と祈りを捧げる少女をモデルに抽象画を描いている。彼女たちはひとりの人間でもあり、複数の人間でもある。光はその心の闇であり、闇はすべてを突き抜けて光となっている。それは太陽と月のようにもみえる。
鋭い画家は言う。
「これはまだやっと描きはじめたばかりの絵だ」
少年は言う。
「けれどとても美しい絵になりそうです」
鋭い画家は言葉を返す。肩をすくめながら。
「少女も清らかだけれども、闇をかかえているのだろうか。清らかな娼婦が娼婦であるのに清らかさを抱えているように」
少年は言う。
「まだわからないのです。彼女たちがどういう人なのか」
「自分がわかるということは、人間がわかるということだ。自分のことがわからなければ、他人のことなどわからない。きっと女性のことも、自分の本当の姿がわかれば理解することができるだろう。自分の心の奥深くにある声を聴こうと俺は思う」
「あなたも目指すべき者に出会ったのですか?」
すると、鋭い画家は懐かしそうに言う。
「俺は一枚の絵をみただけだ。けれどその一枚の絵にはまるで自分のことが描かれているような気がした。俺の過去はその一枚の絵の中にあり、俺の未来もその一枚の絵の中にある」
少年は尋ねる。
「それが目指すべき者が描いた絵なんですね」
目指すべき者は一体どこにいるのだろう。
「僕は彼の教えがほしい。その言葉を直接聞いて、自分が本当に素晴らしい人間になれるともっと信じたいのです」
鋭い画家は言う。
「感じることだよ。そして自分が感じたことに身をまかせるんだ。子どものように」
鋭い画家はそう言うと、ずっと真剣な顔になって、彼が描くふたりでひとりの少女の絵の中に入りこむ。
少年は植物酒を飲みながら、彼が描く絵の中にある魂について考える。
♢
何もない音楽家は、何もないのに音楽を愛している。彼は何もないから自分が演奏することができている音の響きがわからない。少年はそれでもその音楽に心を震えさせられる。
「何かがあるから音楽が演奏できるというものじゃない」そう何もない音楽家は言う。
「何もないぶん、私には何もない音楽を紡ぐことができる。もちろん、それは音楽ですらないのかもしれない。自分ではわからない」
少年はその言葉の続きを待っている。
「ずっと魂の奥で、目指すべき者がどう音楽に向かえばいいか、教えてくれているような気がする。だから、私は私の力で演奏しているんじゃない。何もなくなった時、私は死のうと思った。もう自分は古き王たちの命ずる素晴らしい演奏をすることができないと思ったんだ。けれど、今、思えばあの頃の私の演奏は、なんて自分の外で鳴っていたんだと思うよ。そこには心の震えというものがなかった。私は今、私が演奏する音のその想像の音に震えている。そして今は自分の中にある魂の響きを感じている」
彼はそう言うと、すっと自分の魂の奥に入り込んだようになる。鍵盤はとても深く彼と繋がっている。悲しみの音や喜びの音はない。その想像の中にある大きな至福の時もない。美しい調和は、自然の中のその山や木々とともにある。けれど彼はそこにいない。深い森の中にもいない。大いなる自然に育まれているような風景も描けない。雨が降りしきった後に厚い雲の切れ間から、光が差し込んでくるようにも感じさせられない。季節がどんどん移り変わっても、人々はその中で生きている。けれど何もない。彼の音楽を聴いていると、ただ何もないということがわかる。そして何もないからこそ、強い願いがあらわれている。
欠けているもの。と少年は思う。失われている者が、その失われているだけ、心を響かせる。そういう願いをその音から感じる。
♢
ものまねをする人にもあう。もちろん彼はものまねをするだけだ。だから性別というものもない。男をものまねしたくなったら、男のものまねをし、女をものまねしたかったら、女をものまねする。だからものまねをする人は自分の存在を消す。自分ではなく、まったくの他人になる。ものまねをする人は、この村に住む画家や音楽家や少年や、祈りを捧げる少女や清らかな娼婦や、もっと多くの人のものまねをする。笑いがおきると、それはただのものまねだということになる。それは彼の本意ではない。ものまねをするその本人になりたいと思っていて、だからありとあらゆる者が目指すべき者だと言う。その生まれたての赤ん坊のものまねをするなら、本物の生まれたての赤ん坊の気持ちにならなければならない。清らかな娼婦になりたければ、その身体を捧げるだけではなく、その悲しみや、与えることができる愛を手にしなければならない。
少年は言う。
「きっとあなたがいちばん素晴らしい」
ものまねをする人は言う。
「きっとあなたがいちばん素晴らしい」
少年は言う。
「あなたの夢がかなったら、あなたはすべてのもののことがわかるのではないですか?」
ものまねをする人は言う。
「あなたの夢がかなったら、あなたはすべてのもののことがわかるのではないですか?」
その言葉は、まるで少年自身が言っているように思える。
「僕にはあなたのような才能はない」
するとものまねをする人は言う。
「僕にはあなたのような才能はない」
ある画家はそんな少年と、ものまねをする人の様子を描く。その絵には鏡に映る少年がいる。ふたりの少年がいて、同じ格好をして、同じ言葉を話している。けれど、そのものまねは完璧ではない。
ものまねをする人は、誰もまねる必要がない時間には、ずっと哀しそうな顔をしている。少年は、楽しそうな人のことをまねれば、ずっと楽しそうにいられるだろうにと思う。
♢
歴史家たちは、世界の歴史を記録し続けている。どこで何があり、誰が何を話し、どんな戦争があり、どんな死があったか。けれど歴史家たちは、できるだけ事実の積み重ねの上に歴史を立ち上らさなければならない。ある国とある国の戦争について、どちらかに偏った記述をすれば、それだけ歴史は大きくねじ曲がってしまう。だから、その中立性というものだけを求めて、彼らはこの村にいる。そしてだからこそ彼らはこの村の歴史について何も残すことができず、その外の歴史だけが次々と積み上げられていく。それはとても長く、とても細かい。誕生と終わりの歴史があり、すべての事象をそのまますべて記した長い記録がある。
歴史家は、その長い記録に書かれた事実と事実の隙間を埋めようとする。けれど事実を語る時には、どうしても想像や印象が忍び込んでくる。歴史家は、そういうひとつひとつのことを隠して歴史を語る。
「多くの少年が生まれた。多くの少年は故郷の村を離れた。まだ歴史は続くのだろう?」
少年は言う。「僕の人生は続きます」
歴史家は言う。「事実と切り離された想像や印象の物語が、わたしの思惑とは別に存在する。君の人生にもそういうことがあるはずだ。それは間違いなく、歴史から紛れもなく生まれたのだけれど」
歴史家は言う。「歴史家は、そういうものを忘れて、歴史を語らなければならない」
そして歴史家はうなだれる。
「長いこと歴史家をやっていると、だいたいどうなるのか未来もみえてくる。しかし、歴史家は、未来を描いてはならない。それも歴史家の辛いところだ」
少年は言う。「あなたも目指すべき者に会ったのですか?」
歴史家は言う。「歴史にはそう書かれていないがな」
♢
最後に、祈りを捧げる少女にもう一度会う。そしてこの村に住む色んな人の話をする。
「この村に住む人たちは素晴らしい。みんな何者かを目指している。その心は尊い。そこには信じる力がある」
祈りを捧げる少女は言う。
「みんな信じているから。自分がもっと素晴らしい自分になれるということを」
少年は言う。
「けれど、あなたが彼らのその弱さをすべて引き受けている。その闇という闇を。欲望という欲望を引き受けている」
祈りを捧げる少女は言う。
「私はただ多くの人たちの話を聴き、願っているだけ。だから、誰かひとりのために願うこともできない」
少年は、その言葉に哀しくなる。僕だけのために願って欲しいと思う。けれど、彼女を前にしては、そういうことは言えない。
祈りを捧げる少女は言う。
「あなたも自分のその内側をさらけだしてもいいの」
そういう時に、少年は自分がものまねをする人になったように言う。
「あなたも自分のその内側をさらけだせばいいんだ」
ふたりはお互いを見つめる。
そこには長い沈黙がある。何が正しくて何が間違っているのかわからない沈黙が。ふたりの心は同じようでいて、同じではない。ふたりは結びつくようで、結びつくことができない。そういう難しさが、少年と少女にはある。
少年は言う。
「いや。いいんだ。僕は僕の夢の村を失ってしまいたくない」
♢
夜になると歌声が村に響く。歌い手たちが甘い声で歌を歌っている。少年は窓辺から、魂の樹に宿りながら愛を語り合う鳥たちの声を聞く。鳥たちはただ愛を求めるためだけにさえずる。すると多くの鳥たちが集まってくる。とても簡単に愛を語り合い、そして二羽のつがいとなって大空に飛び立って行く。夜空は月の下でどこまでも広がりをみせる。その中で鳥たちの愛は鳥たちの中で輝いている。それは光のない光だと少年は思う。そして少年は自分がなぜこんなに複雑なのだろうと思う。鳥たちはもっと簡単で、自由だ。そういう愛を見つけた鳥たちのことを羨ましく思う。
歌い手たちは、まだ歌を歌い続けている。彼女たちも愛を求めているのだろう。鳥たちを思うように彼女たちのことを思う。そして、少年は少女がそうするように、歌い手たちの歌に祈りを捧げる。そして彼女たちの心に耳を澄ませる。
♢
愛を求める歌が、哀しみの歌に変わった時、伝言人が、新しい知らせを持ってこの夢の村を訪れる。
そして村人たちに、とても哀しい話を告げてまわる。
「目指すべき者が死んだ。彼は最後に古き王たちに戦いを挑んで、そして死んでしまった。もう僕たちの目指すべき者はいない」
人々の間に動揺が広がる。村を哀しみが包む。少年もその哀しみの一部となる。
多くの人々が、目指すべき者と出会ったことについて語り合う。
涙を流すものもいる。自分の中から消えてしまったものを感じとる者もいる。自分がかつて少年であり、だからこそ信じることができた夢の多くが泡のように消えていく。
美しい夢の数々は、未来の可能性だった。世界が変わる、そういう希望だった。彼らの目指すべき者や彼女たちの目指すべき者は失われ、彼らや彼女たちもまた失われる。
詩人たちは言葉を失う。歴史家たちは歴史を失う。音楽家たちは演奏をやめる。物語はここで終わり、語り部は何も書くことができない。清らかな娼婦はその清らかさを失い、ただの娼婦になる。青い瞳の料理人は、ただ生きるために料理をする。ものまねをする人は、ものまねをする意味を失い、道化師たちまで人を笑わせることができなくなる。
けれど、祈りを捧げる少女だけは、必死に祈りを捧げている。多くの夢が、ここで邪悪な死に引き裂かれてしまわないように。
そして村人たちの多くは、目指すべき者がたとえ死んだとしても、なんとか以前の自分を取り戻そうとする。
でも、夢の村が夢の村であるその象徴だった魂の樹が、枯れはじめる。不思議な木の実は、僕たちの夢そのものだったのだから。青い瞳の料理人は、もう人々に差し出すことができる料理が限られているという事実を告げる。
「生きていくことができなくなる」
誰も彼もがやがてそういう言葉を口にする。少年は目指すべき者の後を追い、その夢の中で死んでしまいたいという誘惑にかられる。けれど、死ぬことは簡単ではない。
少年は目指すべき者のおかげで感じることができた多くの出会いについて思う。目指すべき者について語り合った日々を思い出し、自分がこれまでとても幸せだったその幸運について考える。けれど、ひとり、またひとりと村を去る者があらわれる。信じないもの、悲しむもの、暴れ出すもの。あらゆる夢のような調和は崩れ去り、ばらばらになっていく。
少年は混乱の中で途方に暮れ、同じように混乱し失われている少女を見つけ、ふたりで慰め合う。それは愛が失われた行為となる。とても冷たい身体が触れあう。
少年は何もかも全部忘れて楽になろうと思う。全部忘れてしまわないと、それはどうしようもないことのように思える。けれど、全部を忘れてしまうことなど誰にもできない。その夢はそこにあったのだから。それは少年と同じように失われた少女にとってもそうだった。少年がすべてを忘れないと、少女も忘れられないのだ。少年はやがて、自分の中にある悲しみと怒りを少女にぶつけ、少女もそれにならう。ふたりは結びつくことができたはずなのに、その影は殺めあっているかのようだ。
やがて、村は村とも呼べない場所になってしまう。残された人々は自分のその殻の中に閉じこもり、失われてしまった夢のあとさきについて考え続けている。少年と少女は、その混乱の中で、疲れ果てる。それでも少女は、まだ少年と一緒にいたいと思う。でも、少年にはもう失われ続けることが耐えられない。
少年は、多くの人々が去っていく姿を見送ってから、自分にはしなければならないことがあると思う。
そして、失われた夢の村に別れを告げる。
♢
少年は、夜明けがくる前に失われた夢の村を抜け出す。そして古き王たちの元を目指す。少年は、目指すべき者が本当に死んだという事実を確かめようと決意する。目指すべき者は実在し、古き王たちと戦って死んだ。けれど、目指すべき者とは何だったのか? その真実を確かめるためには、古き王たちの軍隊の元へ行かなければならない。
自分の目で真実を確かめる。
少年の誓いは、あの幼き頃の誓いと重なる。あらゆる真実を暴いてみせる。そのためになら、古き王たちの手先にもなろう。
少年は鋭い刃のように世界を駈けていく。
伝言人は、世界の中心の手前で、目指すべき者が死んだと話していた。そこへ駈けていくのだ。
少年はすべての疑問について考えることをやめる。手を動かし、足を動かす。その速度を早めていく。風のように。けれど、目指しているのは、もう虹の向こうではない。本当の真実なのだ。
旅は、少年に苦しみを与えない。夢の時間が終わってしまった苦しみよりも苦しいことはない。自然という自然を切り裂く一筋の線のように、少年は駈けていく。すべての景色は、ただの通過点にすぎない。通り過ぎていく場所にすぎない。
世界の中心へ近づけば近づくほど、街が増えていく。そこには豊かさがある。富がある。世界は貧しい者と富める者にわけられる。通り過ぎていく街の多くは、滅びの気配すらない。まるで今できたかのように街は新しい。すべては輝いている。真新しい流行と、真新しい文化が生まれている。そして新しい喜びと新しい哀しみが生まれている。その循環の中で、意味という意味は失われ、その形骸だけが残される。
美しい者は、その見かけだけで美しいと言われる。富める者はその富だけで羨ましがられる。魂のない料理が本当の命の魂を犠牲にして差し出される。音楽はまるで機械仕掛けのように生産される。人々は楽しいことだけに明け暮れている。愛のない愛がどこまでも交わされる。罪を知らない人が新しい暴力を生んでいる。
♢
少年は自分の本当の心を隠して、街のひとりになる。そして、古き王たちの軍隊に入るために必要なことを身につける。それは心を捨て去ることだ。幼さを捨て、愛を捨て、夢を捨て、魂を捨てる。古き王たちのその一部となれるよう忠誠を誓う準備をする。忘れられた夢の村の思い出を捨て去り、自分が自分であることをやめる。そして、その古き王たちの軍隊への入隊試験を受ける。
試験官は鋭く少年のことを観察する。その心に反意がないか確かめ続ける。
まず、試験官は動機について質問する。
少年は、古き王たちの世界を守るためだと言う。
試験官は、最も大切なことは何かと質問する。
少年は、規律と忠誠と継続し続ける意思だと言う。
試験官は、夢は何かと問う。
少年は、世界を守るひとりとなることだと言う。
試験官は、人を殺せるかという。
少年は、人を殺せるという。
試験官は、世界を変えたいかという。
少年は、自分が世界のために変わらなければならないという。
試験官は、すべてを捧げるかという。
少年は、すべてを捧げるという。
試験官は、ありとあらゆる質問をし、少年がいったいどういう人間で、どういう素養があり、どう役に立つのか調べる。
「いくらでもお前の代わりはいるのだ」と試験官は言う。
少年はその中でひと際大きな声で言う。
「はい。私の代わりはいくらでもいます。けれど私が一番、世界の役に立ってみせます」
すると試験官は微笑む。
「ちゃんと捨て石になる覚悟ができているのだな」
少年も自分が捨て石であることを自らに言い聞かせる。
少年はその脚力を認められる。その命をかけた忠誠心を認められる。そしてその瞳の奥にある怒りを認められる。
「お前は、鍛えればちょっとは使い物になるかもしれん。明日から兵舎に住むことを許可しよう」
試験官は、そう言うとにやりと笑う。
♢
少年は見事、兵隊となる。その古き王たちのための、世界を守る軍隊の一員だ。手足を揃えて行進する。誰よりも大きな声で話す。背筋を伸ばし、自分のための欲望を持つことを禁じる。命じられたことを、誰よりも命じられるままに行う。口答えをせず、規律を守る。少しの休憩もせず、指揮官が問いかける質問に、すべて、古き王たちの世界のための答えを返す。
眠る時はすぐに眠る。朝の目覚めは、素早く意識を取り戻す。いついかなる時に、命令があるかわからない。そのための心構えをしておく。共に軍隊に入ったものたちとは、必要最低限の会話しかしない。そして少しでも見所があるやつだと思われるような言動をする。緊張を持続させ、少しも油断しない。自分の心の奥の奥を悟らせないようにする。
それでも兵舎のベッドでは、祈りを捧げる少女の夢をみてしまう。
夢の中では、彼女が、あなたは心変わりしたわけではないのだからと慰めてくれる。けれど、目覚めると、ちゃんとすべてを捨てて生きる。一瞬でその命を切り替える。少しでも悟られれば危険だとわかっている。ここは敵地なのだ。
実戦までには、いくつかの演習が行われる。即座に敵を殺す。そういう練習を何回も繰り返させられる。これが現実なら、目の前で命が失われることも、ちゃんとわかっている。それでも、深く、その人形に刃を突き刺す。少しもためらわない。
戦争をするために僕はここにいるんだ。そう心の中で何度も繰り返す。本当に命を奪う、その覚悟をする。
少年の目的は、その軍隊の奥深くに入り込み、目指すべき者を殺した者を知ることだ。真実がもし、少年に納得ができないものなら、少年はその命を奪う。身につけたその刃を、殺した者に突き立てる。だが、少年にはまだ何が真実なのかわからない。まず、真実を知ること。それが大事だと、その心の奥深くで決意する。そのためにここにいる。
♢
やがて、少年の属する小隊に命令が下される。少年は何の疑問もそこに持たない。命じられたことを命じられたままに遂行する。そのためだけの機械となっている。その小隊は、行進を続ける。美しい残酷さで歩き続ける。もし、目の前にむしけらがいたとしても、たちまち踏みつぶしてしまうだろう。命を捨てたものが、その機能となって動いているだけだから。
ゆっくりとした、けれど力強い行進はどこまでも続く。足並みを揃え、敵を威圧するその力を高めていく。脱落は許されない。脱落すると、それは多くの仲間からの侮蔑という暴力がまっている。自分勝手なことは許されない。その機能の歯車となることだけが求められる。
けれど、少年はその中でとても奇妙な感覚に襲われる。今、どこに向かっているのだ?
少年には、その軍隊の向うその先がとても恐ろしい感覚として知覚される。
向かっているのは、失われた夢の村なのだ
少年は突然、その行進から外れた者になる。その部隊の最後列にいる小隊長のところへ駈けて行く。しかし、行進は止まらない。
「小隊長殿。この先には村などありません。ただ夢を失った人々が暮らしているだけなのです」
小隊長は、恫喝する。
「お前は何故、持ち場を離れている」
少年は言う。
「この先には、ただ貧しい村があるだけなのです」
小隊長は周りの者に、この男を捕らえて牢獄に入れてしまえという。
少年の言葉は叫びへと変わる。
「ただ、貧しい者たちがいるだけなのです」
しかし、少年に行進をとめる力はない。少年はその闇の中へ捕らえられ、小隊は、失われた夢の村へと行進を続ける。
♢
少年は、牢獄の奥深くで暗き者となる。あたりでは罪人たちがいやらしい言葉を放っている。
牢獄は闇という闇に包まれている。一切の光がない。自分の手足が、まるで自分の手足のように感じられない。自分の中にあるほんの少し残された希望まで、奪われてしまうような闇が、少年を包む。
その中で囁く声がある。それは嫌らしい罪人たちの囁きのようにも思える。自分の内なる声のようにも思える。
自分が闇の中で、その闇と同化していくことが感じられる。自分の罪が深く、償うまで悔い改め続けなければならないと思わされる。
その中で、ひと際大きな囁きが、ひとつの疑問となる。そういうふうに闇の中の会話は生まれる。
「お前は目指すべき者のことが知りたかったのか」
闇の中の声は言う。
「お前はずいぶんと間違ったんだ。目指すべき者をただ信じていればよかったんだ」
闇の中の声は言う。
「真実を知りたい」
闇の中の声は言う。
「目指すべき者など、この世のどこにもいない。きっと死んだなんて嘘だ。生きていない者は死にようがない」
闇の中の声は言う。
「なぜそんなことを俺が知っている」
闇の中の声は言う。
「罪という罪を背負って生きるんだ。世界のあらゆる罪を。目指すべき者など忘れて、古き王たちの一部となるのだ」
少年はその暗がりの中で、祈りを捧げる少女のことを思う。その光を感じとろうとする。けれどその祈りは、この闇の中までは届かない。彼女は生きているのか。あるいは軍隊に殺されてしまったのか。自分にもっと力があれば。闇の中の声はそう思うたびに、ますますもっと深く暗き者になる。
♢
何年もの時が過ぎ去り、少年は牢獄から連れ出される。その外の世界の清らかな光に、痛みを感じる。目はしばらく世界をそのままには捉えることができずにいる。ずいぶんと長く、闇と同化していたからだ。しかし、罪の償いは終わったのだと少年は思う。
その町は、古き王たちの駐屯地となっており、兵たちが真夜中を過ぎてからようやく開く酒場で、祝杯をあげている。少年もその酒場にふらりとたちより、今、世界がどうなっているのか、話を聞く。
兵たちは楽しそうに笑っている。けれどそれはとても奇妙な笑いだ。
「世界はもうすぐ終わる。古き王たちが、あらゆる反逆者たちを滅ぼし、新しい世界がやってくる。これまでの歴史は終わり、新しい歴史がはじまる。すべての終わりは、また新しいはじまりなのだ」
そう言うと、兵たちは新しいはじまりに乾杯する。
少年も力なく、新しいはじまりに乾杯する。
その言葉は、闇の中にいた少年の心に深く広がる。世界が終わり、新しい世界がはじまる。
僕も新しい人生を歩めるのだろうか。そう少年は思う。
兵たちは、もう誰も殺さずにすむことを喜んでいる。「これからの世界は、人は死ぬまで殺されないだろう」
そう言うと、兵たちが笑う。
「死ぬまで働かされて、そして老いて、死んでいく。なんて素敵な世界なんだ」
少年は兵たちの話に、世界がもう変わってしまったことを感じる。
誰も殺さなくていい世界。死ぬまで生き続ける世界。
そんな世界で軍隊は何をしているのか。
♢
少年は、また軍隊の一員になろうと思う。もう疑問も意思も持たない。生きるために働かなければならない。人を殺さずにすむのなら、軍隊で働くことに問題はない。そして少年には、ほかに選択肢がないように思える。
ただ生きるのだ。ただ生きのびるのだ。
しかし、かすかに少年の中に小さな疑念が生まれる。
古き王たちの軍隊とは何なのだろう? 目指すべき者とは何なのだろう?
けれど、そういう疑念に少年は首をふる。何も考えるな。もうすべての意味は失われてしまったんだ。
少年はまず、生き続けなければならないと思う。だから、もう一度、軍隊で働く。すべてが変わってしまった世界で、どうすればいいのか。けれど、その一部となって働くのだ。
生きる意味は失われている。それでも獣がそうであるように、生き延びることを考えなければならない。だから少年は働く。仕事をする。一心不乱に。力の続く限り。
師団長は厳しく、そして優しい声で言う。
「やっと働くという覚悟ができたか。ならばお前に最もふさわしい仕事を与えてやろう」
そして少年は物語を書くことを命じられる。
♢
少年は、その与えられた机の上で、何でもいいから書くことを命じられる。
最初、少年に浮かんだのは、その闇の物語だ。少年の心はとても濁っていて、その濁ったままを少年は書く。
物語の中では、人が何人も殺される。殺した者は何の反省もせずに人を殺している。その力強さに酔っている。
師団長は言う。
「それでは駄目だ」
そう言うと、師団長は少年をひとりにする。
少年は、その真っ白なページを睨み、また書くべき物語について考える。
次に、少年は淫らな物語を書く。それは少年の中に渦巻く女性たちへの思いであり、欲望である。
師団長はその物語を読むと不機嫌になる。
「そういうのも駄目だ」
そう言われると、少年は困ってしまう。自分の内側にあるものは汚れたものばかりで、誰かに伝えるべき言葉がない。
少年は、次に、優しい少年の話を書く。物語の中で、少年はその優しさの深さの数だけ多くの人を助ける。
師団長はその物語を読むと笑い出す。
「少年や少女にはそうあって欲しいものだな。しかし駄目だ」
少年は最後に、目指すべき者について書く。少年や少女が目指す、そのひとりひとりの目指すべき者について。
師団長はその物語を読むと、深くうなずく。
「やっと目指すべき者のことがわかったようだな」
♢
物語を紡ぐ軍隊には規律がある。それは気づいた者だけに与えられる任務である。
1.目指すべき者の話を作り、その話を広めること
2.若者たちが集う村が誕生し、そこに集まった若者たちに目指すべき者の死を告げること
3.村から誰も居なくなった頃に、夢の村の痕跡を消すこと
4.目指すべき者がいないことを軍隊外の者に伝えないこと
♢
軍隊で働く者たちは、ちゃんと接すれば、失われた夢の村にいる人々とそれほどの違いはない。同じ人間だ。ただその心をその中で隠している。少年がかつてそうだったように、その瞳の奥にぎらつきを持つものもいる。ただ、生きていければいいという者もいる。けれど、その言葉の奥には、かつて少年や少女だったという残り火がある。もう遠い昔に消えてしまったと言うものもいる。それでも必死に生きている。
その心が暗く沈んだとしても、その心がどれほど他人を傷つけるとしても、同じ人間なのだと少年は感じる。そして少年も他の誰かにとってはそういう者のひとりでしかない。
その新しい軍隊の中では、次々に、新しい目指すべき者の物語が作られ続ける。それは日常を生きる者の夢の結晶だ。
目指すべき者は、物語を紡ぐ軍隊の夢の工場で生産されている。
誰かが目指すべき者ではない物語を語ったら、それは違うと兵隊たちが言う。そして目指すべき者でない物語は闇に葬られる。あるいは、それは長い時間を経て、新しい目指すべき者に生まれ変わる。
新しい夢が次々と生まれ、少年や少女は新しい夢を手にとり、その未来への希望をみる。あるいは絶望をみる。
とてもよくできた目指すべき者は、何も物語だけというわけではない。それは歌い手であり、画家であり、宗教家であり、政治家であり、革命家である。そして小説家でもある。
とてもよくできた目指すべき者はたくさんの金になる。たくさんの富となる。たくさんの希望となる。
そして、物語を紡ぐ軍隊は、どんどん新しい目指すべき者を生産する。人々はどんどん新しい希望を消費し、古い目指すべき者は、忘れ去られていく。幾多の目指すべき者が生まれ、そして消えていく。
少年はまがい物を信じて、その間違ったまがい物を信じたぶんだけ、人生を損なう。もちろん、人が信じれば、それだけまがい物たちは、本物の輝きを手にする。かつて、宗教は目指すべき者たちの宝庫だった。いや、今でもそうなのかもしれない。しかし、すべての軍隊がそうであるように、情報は管理されている。目指すべき者も管理されている。多くの人々も、その管理の中にいる。
すべての夢という夢を失うまで、その軍隊では新しい物語が作られ続ける。新しい出会いが語られ、新しい歴史が見つけられ、新しい音楽が生まれる。もちろん、その魂の在処は、どんどん変質している。
少年の上官は言う。
「まだ、お前には熱が残っているようだな。だからそのぶん、面白い目指すべき者の話が書けるだろう。そしてうんと少年や少女を喜ばせてやるがよい。世界に希望を与え、世界から哀しみを感じさせないくらい。すべての価値観を転換させ、男と女を結びつけ、この世の楽園を現出させる。そういう話を書くがよい」
少年はそう言われても、何かが失われていて、何ひとつ書けない。これが軍隊の仕事だなんてなんだか馬鹿げている。そう思いながら、少年は心の赴くままに言葉を綴る。
♢
少年はそういう軍隊の暮らしの中で、何人もの女性と時を過ごす。一緒に暮らすこともある。けれど、少年の中からは何かが失われていて、そういうひとつひとつの愛が、いったい何だったのか、思い出すことができない。魂のこもらない愛の行為に、数多くの女性たちが泣いている。そういう女性たちの中には、きっと本物の愛を少年に求めている人もいただろうに。
けれど、泡のような世界も、人が実際に死ぬ世界も、少年には耐えられない。そして、今や少年はその泡そのものなのだ。
少年は言葉を紡ぎ続ける。少しでも人の心を慰め、癒し、そして救いのある言葉を求めて。けれど、少年のそういう思いは、どこにも結びつかない。
そして、少年は何のために生きているのだろうと思う。
そんなある日、少年の元に、魔法の薬売りがやってくる。
魔法の薬売りは言う。
「いいかい。この世界はとても退屈なことで満ちている。とても理不尽なことがある。正しいと思っていたことが間違いだったり、間違いだと思っていたことが正しかったりする。そういう時には、魔法の薬を飲むんだよ。そうすれば、また、何だってできるという気持ちになれる」
少年はその薬売りの言葉に、失われた者だけが語ることができる強い誘惑を感じる。もう何もかも終わってしまったんだと少年は思う。なら、魔法の薬を飲んでしまったって構わないじゃないか。
少年は何かに騙されたように、その薬を飲む。
すると、世界がぐにゃりと音を立てて変わる。目の前にあるものが、目の前から消えてしまう。すべてのものごとは、どこか遠くで起きていて、自分が世界の中心からそれを眺めているという気持ちになる。その時の流れに手を出すことはできない。運命を変えることもできない。けれど、世界のそのひとつひとつの繋がりが、魔法のようにみえる。世界の音という音は、自分の内側から生まれている。人々の間にある壁という壁が消えさり、少年は少年ではなくなる。
そして自分の内側にある魂の樹が、もう一度、蘇る感触がある。
少年の前に、目指すべき者の光なき光が戻ってくる。彼は生きていて、その声なき言葉が響きはじめる。
魔法の薬売りは、その少年の朦朧とした意識の中で言う。
「目指すべき者を、もう一度、目指すんだ。それは本物の作り物なんだから」
♢
そして、少年は物語を書く。軍隊の立派な一員となる。それは古き王たちが望むことであり、魂の樹にまたひとつ物語が捧げられる。少年は遊び、そして働く。そして物語が終わり、人生がはじまる。
けれど、そんなふうにこの少年の物語は終わることが許されなかった。
少年はある時、とても哀しい便りをもらう。
失われた夢の村に住んでいた祈りを捧げていた少女が死にました。彼女は最後まで、あなたのことを祈っていました。
少年は、彼女が、ずっと少年のために祈りを捧げ続けてくれたことを知る。
きっと死ぬまで目指すべき者のことを信じていただろう。その微笑みは汚れを知らず、世界にたったひとつの慈愛だった。陳腐な物語を信じて死んでいく多くの者たちのために少女は死ぬまで祈りを捧げた。
そういうことを思うと、自分はいったい何をやっているのだろうと思う。
物語を信じて、その若き夢を信じて、信じたまま、彼女は逝ってしまったのだ。
だから、今、彼女の祈りは、ようやく少年の胸に響く。彼女の願いをどうしても叶えなければならないと思う。自分のために書く物語などいらない。若者たちを欺く物語も必要ない。今、本当に必要なのは、きっとすべての魂のための物語なのだ。
けれど、少年は長い間、何も語ることができずにいる。ひょっとすると彼女を殺したのは自分なのかもしれない。
彼女を殺してしまったその手の感触が、なかなか消えてしまわない。
もっと彼女のそばにいて、その笑顔が向ける世界を感じていたかった。彼女が祈りを捧げていたすべてのことの一部となって生きていたかった。すべての祈りは、世界を光へ導こうとしていたのだから。
物語に踊ること。踊れる物語を作ることは楽しいことだと少年は知っている。けれど、それは時として、本当に誰かを殺すことになるかもしれないのだ。
そして、彼女のための、新しい物語の最初の言葉を語れずにいる。
少女に語りかけることができる最初の言葉を探し求める。けれど、故郷を遠く離れて、経験という経験を積み重ねても、彼女の人生に捧げる、その最初の言葉は見つからない。
♢
少年は、過ぎ去りし日々を思い出しながら、目指すべき者が与える光とは違う、新しい夢をみる。
それは、古き王たちに会いにいく夢だ。何故、人は死に、哀しみが生まれるのか、その根源をつきつける。もし、古き王たちが、神のような力を持つなら、なぜこの世界の哀しみをとめるために力を使わないのか。
そして少年はもう一度、旅に出る。今度こそすべてを捨てて、古き王たちの住む世界の中心へと向かう。
僕は殺されるかもしれない。そう少年は思う。けれど構わない。
その喉元に届く鋭い刃のような言葉を、彼らに投げつける。
そう決心すると、少年は軍隊を飛び出す。そして、その両足をもう一度奮い立たせて、世界の中心へ走って行く。
世界の中心に、古き王たちはいる。少年は世界のそのありとあらゆる中心へと向う。けれどそれはやはり世界の果てなのかもしれない。
胸の中にある熱は破裂するばかりに脈打ち、少年に最後の力を与える。
それは怒りなのかもしれない。それは哀しみなのかもしれない。けれど、どこかから溢れている言葉という言葉を駆使し、力という力を集めて、その古き王たちに刃を向ける。
♢
世界の中心はとても冷たく、あらゆるものが洗練されている。無駄という無駄が省かれ、効率的に物事が遂行される。世界の中心には、その象徴となる天にとどく塔があり、その高さが、中心にあるものの力の象徴となっている。その中身は空洞だ。しかし、人は見上げなければ、その自分の小ささを顧みることができない。そう世界の中心にいる者たちは考えている。
世界の中心には闇夜がない。すべての動力はその中心を輝かせるために使われている。とても眩しい光が人を誘う。世界の辺境という辺境は、今、死に、滅びさろうとしているのに、世界の中心はその動力で自らを輝かせている。
降り注ぐ太陽の光は、万人に、あらゆるものに等しく与えられているのに、世界の中心は、そのすべての光で自らを照らす。真実の神の摂理とは違う、まがい者たちのためのまがい者の塔。そう少年は世界の中心の塔を呪う。
その中心に存在する寒さが、少年をとても凍えさせる。その魂のない世界が、このわたしたちの住む世界の中心なのだと思う。
巨大であるものが、本当に巨大だとしても、そこには本当の魂がなければ意味がない。そしてその塔に誘われる者たちは、きっと永遠にまがい物の神を信じ続けるだけなのだ。
人々のその弱い心につけこみ、自分たちが人々に分け与え、その心の貧しさに、光を与えていると思っている。すべての人が本来、生まれながらに有している本当の力を、自分たちのものにしようとしている。
本当の神は違う。そう少年は、そこに住む多くの者たちに言ってまわりたくなる。その原初にある太陽への祈りを、すべての生物のための祈りを、生物を殺めてしまったその哀しみの叫びを、心が感じていたのだ。誰に教えられることなく。過ちを償うことを説くなら、このわたしたちの世界を過ちへ導いたことを、その古き王たちは、人となって詫びるがいい。
けれど、その世界の中心で叫ぶ思いは、誰にも届かない。多くの人々は、今ある世界が、ずっと昔より、ずっと良くなっていることを知っている。自分たちが生きていくには、誰かの言う言葉を聞き、その通りに働かなければならないことを知っている。まがい物の喜びだと感じることがあっても、そのまがい物に、文句を言いながら、納得している。
そして、この世界がいつまでも続くと思っている。
あるいは、そうではないのかもしれない。少年のように、怒り、泣き、哀しみ、笑いながら、それでも生きていかざるを得ないことを悟っているのかもしれない。
そういうことを考えると、少年は、その多くの人々が足早に通りすぎていく、その道を歩くひとりの放浪者となって、彷徨うことしかできない。
少年は、もうとっくに知っている。古き王たちがいないことを。その中心には、俺が、私が、僕が、儂が王なのだと、声を出さずにいるひとりひとりの人間がいるだけなのだ。
少年は、しばらくその中心で泣きながら、うずくまっているところを、ある屋敷の主人に助けられる。
「今日はここでお休みになるがいいです」
屋敷の主人はそう言うと、どこかへいなくなる。
そして少年は深い眠りにおちる。
♢
世界の中心にいる人たちは、今ではありとあらゆることを知っている。その最初の産声も、その人生の道のりも、その叫びも。ありとあらゆることを知っている。だから、世界の中心にいる者たちは、少年がようやくここまで来たということを知っている。
その屋敷は城だと言われれば、城とも言えるかもしれない大きさを有している。けれど、そこには、人の気配はない。中はしん、と静まりかえっている。
少年は、その屋敷の中を走りまわり、「誰かいませんか」と言う。けれど、その声に反応する者はいない。しばらくしても何もおこらないどころか、誰に会うこともできない。
少年は幾つもの扉を開き、中が空っぽなことを確認して、次々とドアをあけて何かが起こるのを待つ。全て同じつくりの同じ部屋がどこまでも続いている。けれど、何かが少しずつ違ってみえる部屋だ。ずっとそのドアの扉を開け続ける。
部屋という部屋は、すべて同じ作りで、そこには等しくすべて鏡がある。少年は鏡の中の自分をみると、またその少年が、その鏡の中から少年をみている。
ただの鏡だと少年は思う。
やがて、少年は、ある扉の前に辿り着く。それはこの屋敷でいちばん新しい扉のように思える。
部屋の中は、まだ真っ白で、その空間には何もない。
中に入ると、少年は、その鏡の中で、生まれたての自分の姿をみる。そして年老いて死にそうな自分の姿をみる。それは忘れられた夢の村の鋭い画家が描いた、抽象画のようにも思える。過去と未来を表した印象画のようにもみえる。そこには何もない音楽家の何もない音楽が響いている。歴史家は、少年の歴史を正確無比に記録している。そのすべてがうつしだすのはひとりの少年の姿だ。
そして少年は、その部屋で自分のことがわかる。
屋敷を出ると、父ぐらいの年の男が入り口にいる。
「こういう時には、なんてご挨拶をすればよいのでしょうな」
そう父ぐらいの年の男は言う。
少年は言う。
「この屋敷は誰のものだったのですか?」
すると父ぐらいの男は、「ここに来る人のものです」と言う。
♢
少年は世界の中心を眺める。すると、どこからか、誰かの呼んでいる声が聴こえる。とても深い声だ。
「いのちには散りゆく時がある。それをさけることはできない」
少年は、その声に内なる声という、新しい名前を与える。
内なる声は言う。
「しかし、いのちはまた受け継がれる。国が滅んでも、また新しい国がこの国を受け継ぐ。世界が滅んでも、新しい世界が世界を受け継ぐ。変わりゆくものもある。しかし、今ここにある世界は、また新しい世界のはじまりを含んでいる」
少年は言う。
「けれど僕の魂を受け継ぐ者はまだいません」
内なる声は言う。
「父と母を理解し、愛する者を見つけるのだ」
少年は言う。
「僕は多くの人を傷つけたのかもしれない」
内なる声は言う。
「傷つけたぶんだけ、愛する者を愛しなさい」
その時、少年にはやっと理解できる。自分が求めているものがそれほど大きなものではなく、ただ愛を求めて彷徨っていただけなのだということが。そして、目指すべき者はその深く内側に本当にいて、少年をその深い傷つきから守ってくれている。
けれど、少年はとても凍える。知りたいことを手にいれた代わりに、何かを失おうとしている。そう少年は感じる。
残された最後の大切なものを失いたくない。
もし、新しい戦争がはじまり、新しい理想が生まれ、新しい闇が生まれ続けるのだとしても、命のその連なりを終わらせてしまいたくはない。
もう誰にも奪わせない。そう少年は決意する。自分の魂は、自分と、そして愛する者たちのためにあるのだから。
そして、愛すべき者に、手に入れた最初の愛のはじまりの言葉を語りかけるのだ。
♢
少年の手には、いつしか帰りの切符が握られている。けれど、それは本当に少年が願わなければ、すぐになくなろうとする。
少年はその世界の中心を眺める。本当に人を惹きつけるところだ。いったい何度、ここへくることを夢みただろう。
それでも、どれだけの困難をくぐり抜けてきたとしても、この人を惹きつける幻の世界から、立ち去らなければならない。とても大きく、とても洗練されていて、とても輝いている。夢見続けてきた世界の中心。その世界と別れを告げ、愛する者たちの元へ帰らなければならない。でも、何故か少年は泣いてしまう。目指してきた夢が、今、本当に終わってしまうから。帰りの切符を握りしめながら、少年はその世界の中心を後にする。
そして、真新しい虹の向こうの世界で、自分が与えられてきた愛を、真新しい命に捧げるのだ。
けれど、少年にはわかっている。世界の中心はどこまでもこの世界に広がっていることが。
あるいは故郷も、そうなっているのかもしれない。
あるいは少年も、そうなっているのかもしれない。
それは、試される時にだけ、試され続ける。
♢
物語がようやく終わると、髪の長い少年は、少年にやがて愛すべき者を与える。かつて少年がわかちあった魂を、もう一度わかちあうことができるように。祈りを捧げる少女もその場所にいて、少年が正しい祈りに辿りつくよう祈りつづけている。やがてあらわれる愛すべき者は、どこまでも遠くへ旅立ち、傷ついた少年の話の隅から隅までに耳を傾けるだろう。昔、夢みていた世界より、この世界がどれだけひどいものだったとしても。そして、光射す場所で、少年が見つけた本当の願いを叶えるのだ。