Bird1
*
大きな時の流れがまるでみえるような時もあれば、今、目の前で起きていることさえ、いったいどんな意味があるのかわからなくなってしまう。穏やかに時は流れている。今の自分を忘れて、時のはじまりと終わりのことを考える。水のように高いところから低いところへ流れていくあらゆるものごと。未来は望むようにはやってこないけれど、感じとろうとすれば、不意にすべてが明らかになったような開かれた場所にたどり着く。最初の清らかな水のたまりと、やがてすべてが流れこむ海の広さは 誰の心の中にもある。あらゆる魂は、その中で時に逆らい時にその速度をあげる。雲は海から生まれ、また雨となって大地に降り注ぐ。今ここからだと時の流れは河のように穏やかに思えるけれど、もっと永い時間のなかでは、河の水は天へのぼって雲になる。魂も同じだろうか? 心を通わせた人々が、時々、心の中にいることを感じるけれど、彼や彼女は別の時間、別の場所では生きていてそれぞれの思いの中にいる。僕は自分が自分のなかにしかいないと思っていた。けれどそれは大きな間違いだった。彼女はただの友だちで、出会った頃にはとても惹かれていた。けれどその気持ちを伝えることができなかった。僕は別の女の子と初めてのデートをした。季節は夏の前で、ちょうど梅雨があけて空が高くなりはじめた頃だった。好きなのは彼女の友だちではなかったのに。僕の困惑を知らず、彼女はとても素敵な笑顔で言った。
「とてもいい娘だから」
*
夜の遊園地でベンチに座り、隣にいる女の子がとても魅力的だということを感じていた。足はほっそりとしていて長く、肩に手をまわせば、その身体の線の細さが感じられた。はじめてのキスをして、そして戸惑った。好きな女の子の友だちとキスをして、そのままどうにかなってしまうこともできるのだ。けれど、僕が目の前の女の子に対してではなく、彼女に対して感じてきた気持ちは、どうすればいいのだろう? 彼女の友だちはキスをした後で、僕が何か話し出すことを待っていた。けれど、自分が何か間違ったことをしてしまったのかもしれないということと、彼女の友だちを傷つけることがまた彼女を傷つけるだろうということを恐れた。
遊園地までの道のりはとても長く険しかった。遊園地は僕たちが住んでいる町から、電車でも1時間以上は時間がかかる。僕と彼女の友だちは駅で待ち合わせて、バイクに乗り、国道をまっすぐ走った。アスファルトは太陽に焼かれて、渋滞の車はボンネットで卵が焼けそうだった。僕らはその渋滞の脇をバイクで走り続けた。バイクの後ろに女の子をのせるのは初めてで、胸のふくらみが運転をしながらとても気になった。出会ったばかりなのに身体を密着している。10代が終わったばかりの僕には、出会ったばかりの女の子に楽しい話ができるようなゆとりはなかった。話したことは大学の退屈な授業のこととか、バンドのこと。今年の夏には海に行きたいと思っていること。そういうことをバイクで走りながら話した。バイクにふたりで乗っていると、顔と顔が近く、ミラーには女の子の顔がくっきりと映っていた。僕はちらちらその表情を盗み見た。風に髪がなびいていた。あまりの距離の近さに、身体と身体から、何か自分の中をかけめぐる思いのようなものが伝わってしまって、どうしようもなくなるのではないかと思った。その最初から僕は彼女への思いと、彼女の友だちとのあまりに近い身体の距離に翻弄されていた。20歳の青年にとって、自分の中にある欲望をコントロールすることは簡単なことではない。ほんの少し、よこしまな思いに身をまかせてしまえば彼女の友だちとどうにかなることだってできてしまうのだ。
遊園地に着いたのはもう午後3時をまわっていた。思っていたよりも時間がかかっていた。こんなに暑いのなら映画館にでも行って、お茶でもすればよかったと僕は言った。せっかくだしと彼女の友だちは言った。僕らはもうすぐ夕方なのに遊園地の1日券を購入して、園内を歩いた。すぐに大きなジェットコースターが目に入った。
「ああいうのに乗れる?」
彼女の友だちは、首を振って「怖いのはダメ」と言った。だから僕らはコーヒーカップに乗ってぐるぐるまわったり、植物園で花や木を眺めたりした。花の名前や木の名前は僕にはわからなかった。草木は観葉植物みたいにおとなしかった。ただそう感じながら女の子を連れて歩いた。
「高校の頃はどんな話をしてた?」そう尋ねた。彼女の友だちは言う。「たいていは男の子のこと。けれど話を聞くばかりで、あまり自分のことは話さなかったから」
「彼氏ぐらいいたんだよね?」
「それはひみつ。今はいないよ」
「それっていたってことだろ?」
「そっちこそどうなのよ?」
「俺はもてなかったから」
「音楽やってるんでしょ?」
「だからってもてることとは関係ない」
ふうん、と女の子は言った。「なんで浅井は君のこと、僕に紹介したんだろ?」
「夏だからじゃない?」そういうと彼女の友だちは笑った。
僕らはボートに乗って、園内にある湖を一周した。動物の形をしたペダルを漕ぐボートに乗ったカップルが楽しそうに笑っていた。僕らが乗ったのは普通のボートだった。その普通さがわりと嫌いではなかった。けれど女の子は僕にオールを預けて、波間に揺られていた。
「漕いでみる?」そう言うと、彼女はううんと言った。
ボートを漕ぎながら、彼女ではなく彼女の友だちとここにいることの不思議さを感じていた。大学に入ってからすぐに浅井とはなんでも話すようになった。もちろん彼女は僕とだけ特別に親しいというわけではなかった。けれど彼女はなんとなく何を話しても受け入れてくれるようなところがあった。そして素敵な笑顔があった。
ボートを降りると「ユキでいいから」 そう浅井の友だちは言った。
「呼び方?」
「そう」ユキは言った。
僕は「浅井のことだって本人の前では、さんづけなんだぜ」と言った。「でも、名字で呼ばれるのは嫌いだから」とユキは言った。
僕とユキはぎこちなく話したり、歩いたり、乗り物に乗ったりした。それでもペットボトルを買ってわけたり、昔のことを話したりすると、ただ浅井のことを考えているよりはずいぶん気持ちが楽になった。問題はユキが時々、その腕の白い肌や、その薄いシャツから下着をうっすらみせていることや、その短いショートパンツにあった。もちろん浅井の友だちだということを忘れたことはなかった。浅井がユキを僕に紹介したのだ。彼女のことを思っていたことを忘れて、ユキと親しくなればいいのかもしれない。彼女らしい平和的な解決方法だった。問題は僕にだって心がありユキにだって心があることだった。そして出会ったばかりのユキが僕のことをどう思っているかなんて、まるでわからなかった。ただ初夏の日差しが、ユキの肌にうっすらとした汗の雫をにじませていた。
「浅井と仲良くなったのはさ、授業をサボって部室で話していた時なんだよ。昼イチの授業をサボって、俺は部室にいて彼女もなぜか次の授業を待ちながらひとり部室にいた」
なんとなく部室でふたりになってからはじめて、浅井と身の上話をした。大学に入る前に病気になって、ベッドの上で音楽ばかり聴いていたこと。大学には親の薦めで入ったこと。今はバンドをしながら仲間と過ごすことが楽しいこと。何も話すことがなかったから、自分のことを話した。そういうふうに話しても、真面目に聞いてくれるのは浅井ぐらいだった。特に女の子の中では。
「浅井はとても魅力的だよ。けれど何か違うんだよな。異性をみる目でみるのとは違うなにか変なことがあったんだよ」
ユキはそう言うと「何よ、その変なことって」と言った。けれどそう言われてその変なことがすぐに説明できるほど僕は頭がよくない。
「なにか色々話せたみたいなことだよ」
「なんだか私とは色々話せないみたいじゃない?」
「そういうわけじゃないんだけど」と僕は言った。
「要するに、ユリのことが好きだったって言うんでしょ?」
「違うよ。なにか不思議と思っていることが何でも話せたんだ」
「違わないよ」
「たとえばユキのことはほらなにか意識してしまうだろ? そういうのってどこかがちがちになってしまう部分があるというか」
「緊張してるんだ」そう言うとユキは満足そうに笑った。僕はそっと舌打ちすると、違うんだけれどなとつぶやいた。
「やっぱり乗ろうよ。ジェットコースター。遊園地に来て、ジェットコースターに乗らないなんて、何をしに来たのかわからないよ」と言った。
「怖いのはダメって言ってるじゃない。本当に逆さになったり、急に走りはじめたり、宙ぶらりんになったりするのは怖いのよ」
「じゃ、何するんだよ。怖い系の乗り物を全部パスしちゃったら、あとは本当に子どもが乗るような乗り物しかないんだぜ」
そう言うと遊園地のパンフレットを広げた。ユキもそれを覗きこんだ。相変わらず、彼女は無防備なくらい身体を近づける。僕はそれに少し困った。だから意識してしまうんだよと心の中で思うが、幸いユキにはそういうことは伝わらない。
「本当に何もないね。この遊園地」とユキは言った。
「近場だから仕方ないだろう。あとは観覧車があるけど、ライトアップされてから乗りたいし」
そう言うと「一応、プランみたいなものはあるわけね」とユキは言った。
「なんとなくだよ」と僕は言った。「なにか計画をちゃんとたてても、その通りにいったためしがないんだ」
「無計画ってわけ?」
「違うんだよ。何か雰囲気とかノリとかあるだろ」
「そういうとこ、女の子はみるんだよ。この人は計画的な人だろうか。あるいはその場その場の人だろうか」
「悪かったですね」と僕は言った。
「別にいいの」とユキは言った。
遊園地のカフェはちょうどお酒が置いてあってユキが最初に「飲もう」と言った。
バイクで来てるんだぞと言うが、ユキは「バイクなんか、今日は遊園地に置いていっちゃいなさいよ」と言った。
「また今度、取りにおいで」
僕は「わかったよ」と言った。
ちょっとしたアルコールは、舌を軽くするには充分だった。そしてユキは話を聴き出すことがうまかった。きっとそういうふうに高校時代も色んな人の恋の話を聴いてきたのだろう。
レジで会計を済ますと、ユキと並んで歩いた。少しぐらい酔っ払ったとはいえ、この胸の鼓動がアルコールのせいなのか、この隣にいる可愛い娘のせいなのかはわからなかった。
観覧車のチケットを2枚購入した。
ゴンドラはゆっくりと地上を離れた。向かい合って椅子に座った。ジェットコースターのレールが白いうねりを描いているのがみえた。どきどきしながら、ユキの座っている側の席についた。ユキが窓の外をみながら、僕のほうへ手をさしだした。そっとその手を握った。
ユキはふいに振り向いた。ゴンドラは頂上まで後少しというところだった。世界は夕暮れ時で、僕らが恋人だったなら、愛を語り合うにふさわしい時だった。
僕は正直に言った。「今日、本当に楽しかった。まるで憂鬱な梅雨がいっぺんに吹き飛んで、雲ひとつなくなったみたいに」
ユキは「それだけ?」と言った。 僕は「ユキのことが気になりはじめている」と言った。ユキは「わたしはあなたのこと、なんとも思ってないけどね」
そう言うと、彼女は僕の唇を奪った。キスをしたのだ。一瞬、何もかもわからなくなった。今いる場所がどこで、これからどうなるのかも。でも、ユキはさっと窓の外をみて「ねぇ、凄く綺麗だよ」と言った。
雲が夕陽に照らされて美しい模様を空に描いていた。僕はさっきの行為が幻なのだろうかとずっと考えていた。
観覧車を降りて、ふたりでベンチに並んで座った時、僕らはもう一度、キスをした。今度は深く、長いキスだった。言葉は何も交わさなかった。そして、そのキスが終わった時、僕は何を言えばいいのかわからなかった。
*
「どうだった?」
浅井ユリがいつものように部室で話しかけてくると、僕は何をどう話せばいいかわからなかった。世の中にはわからないことがたくさんある。女の子とキスをした後に何を話せばいいのかもわからないし、好きな女の子に訊ねられた疑問のひとつひとつにきちんと答えることも難しい。
「ユキはとてもいい人だったよ」そう返事をした。
「でしょ? あの娘、口はぶっきらぼうだけど、とてもわかってくれる娘なのよ」
「わかってくれる?」
「そう。いろいろわかってくれるのよ」そう浅井は言った。
部室にはアコースティックギターやら、ベンチやら、ペットボトルやら、どこかのバンドのデモCDが散乱していた。正方形のどこにでもある大学の部室だった。僕らはそういう真四角な空間の散らかった場所で、たまたまふたりっきりでいた。でも、僕は構わず話を続けた。
「とにかく素敵な娘だったよ。浅井の友だちってみんなあんな感じ?」
浅井は少し考えてから言った。「ユキは少し特別かな? 高校時代に知り合って、あ、この娘は違うって何か思ったから」
その話を聞いて、僕は浅井に対して感じた気持ちとはそういうことなのだけれどと思った。
「何か、一瞬でわかりあえるというか?」
僕がそう言うと、浅井は考えこんだ。考えこむ時、浅井は唇の下に手をおく癖がある。
「そうね。そういう感じに近いかもしれない」
僕は、浅井とだってそういう感じだったんだけれどなと思った。
「わたし、聞いたことがあるんだ」と浅井は言う。「すぐに気があう人は、縁がある人だって。前世かどうかはわからないけれど、深い何かで繋がっていて、話す言葉や行動が見えない力でぴたりと合わさってしまう」
「ぴたりと合わさる?」
「そう。何かの力が働いていて、ふたりを結びつけようとしている。それは何か巨大な糸のように絡み合っている人間関係を、すごくわかりやすくしてくれる。わたし思うもの。あ、この人には何でも話せるなとか、この人とは少し距離をとろうとか」
僕はいちばん訊きたかった質問をした。
「僕は浅井にとってどちら側の人間なんだ?」
「そうだね。少なくとも何かを感じる」
そう言われて素直に嬉しかった。
浅井は「ユキには何か 感じなかった?」と言った。
僕は「俺、そんな霊感ない」と言った。
浅井は「でも、感じる力は誰でも持っているよ」と言った。
確かにそうかもしれない。
*
僕らは授業中や、授業の合間に部室に集まった。サークルというものに所属することは、僕のような大学の授業が退屈な学生と、大学とを唯一むすびつける強い接点だった。それはそのまま僕と大学の人間を結びつけていた。僕はことあるごとに気が向かないとか、寝不足だとか、あの先生の授業は退屈だとか理由をつけて、授業を休み、部室に出入りするサークルの仲間と言葉を交わした。もちろん部室には誰もいないという時だってある。そういう時には、置いてある漫画や雑誌、自分の携帯電話を触って過ごした。授業に行かなければ、時間はありあまるほどあった。優秀な学生なら起業でもして、社会人も驚くような金額を手にすることだってできたかもしれない。けれど僕が手にしていたのは、サークルに所属する仲間たちと、僕の愛好する音楽だけだった。誰もお金なんて少しも持っていなかった。その割には毎週のように どこかで酒を飲んだ。それは友だちの家だったり、僕の家だったり、あるいは大手居酒屋のチェーンだったりした。
要するに自由だった。何かを追求することも、誰かと恋を楽しむことも、未来へ向けて勉強をすることも、アルバイトをしてお金を貯めることも自由だ。すべての行動は個々人の選択に委ねられていた。僕らはその退屈さと隣り合わせの自由の中で、同じ船に乗り同じ未来がどこまでも続くと信じている海賊船の船員のように、輝かしい未来がやって来ると信じていた。
僕は音楽の話をよくした。当たり前だけどみんなそれぞれに好きな音楽があった。僕は誰とでも話をするというタイプではなかったけれど、音楽が好きな人たちはみんな仲間だと思えた。音楽は、僕らの個性を表すには充分すぎるぐらいの種類があった。それぞれがそれぞれ自分が自分であることの証のように自分の音楽を求めていた。それはこの世界にあらゆる種類の個性があることを教えてくれていた。
なぜバンドに憧れたのか。ただ世の中の多くのバンドをする若者がもてたいからなんて言っているのとは違う動機だったと思う。僕は小学校の頃から絵は描けないし、文章を書くことはできたが作家になりたいと思っていたわけではなかった。
僕は中学1年生の時に最初に声をかけてきた友だち、先生からは後に不良と呼ばれるようになる櫻井が、なぜ僕に声をかけてきたのかわからなかった。彼は絵が上手かったし、アウシュビッツ収容所の写真集を本屋で見つけて、その説明をしてくれた。僕の中学校は、アウシュビッツほど酷かったわけではないけれど、僕や彼はその心のどこかで、学校が強制収容所とそれほどは変わらない状況にあることをどこかで理解しあっていたのかもしれない。
僕は受験のために初めて塾に通うようになり、半年間、勉強をして地域で2番目に偏差値が高い進学校に合格した。
しかし僕はまたしても高校がアウシュビッツとそんなに違いはないことを確認しただけだった。そんな時には不良の櫻井がバンドをやろうと誘いかけてくれたことを思い出した。
僕はMacintoshをアルバイトをして購入し、中古レコード店に行っては聴いたことのない音楽を探した。飽きることなく 音楽を聴き続けた。受験というのは点数を競いあう馬鹿な競争に過ぎないと思った。高校に入ってすぐにもう競争なんて馬鹿なことはやめようと思っていた。良い高校、良い大学、良い就職なんて敷かれたレールの上で走り続けるだけの人生は嫌だった。櫻井が言っていたバンドをするということが、その競争やレールの上を走り続けることとは、ぜんぜん違うとても魅力的なことのように響いていた。
高校3年生の時に芸術大学を受験した。テストは小論文だけだった。でもその小論文さえまともに書けなかったらしい。僕は大学に入れずまたもう一年勉強するか専門学校にでも行くしかなかった。僕はコンピュータの専門学校へ行きたかった。でも両親がそれを許さなかった。仕方なく大学を目指して勉強をはじめた。でも、ひとり孤独に勉強を続けることはできなかった。だんだん夜眠ることができなくなり、精神的に追いつめられた。自分が思っていたよりも弱い人間だと思った。そして半年ぐらい誰とも話すことができなくなった。未来の希望もみえなくなった。そしてただ音楽を聴き続けた。自分が狂ってしまわないようにヘッドフォンをしながら。音楽だけが僕の中にあって、音楽を聴きながらなんとか半年間生きた。自分が何かとんでもない病気になってしまった気がしていた。それでも音楽を聴くことは自分自身の現在を遠く離れる行為だった。僕は想像の音楽を求めキーボードを叩き続けた。
その冬、僕はまぐれで仏教系の大学の文学部に合格した。でも半年間、誰とも話さずに音楽を聴いていた後遺症はしっかりと残っていた。誰もが笑顔で大学に入学するようには大学生活をはじめることができなかった。大学から少し離れた場所の学生向けマンションに住んだ。ベッドとカーテンと家具をすべて黒色で統一した。まるで自分の心が真っ黒になってしまった気がした。そして部屋の壁の白さが僕には不思議な色に思えた。でも壁の色までは変えることができなかった。後はMacintoshとキーボードが部屋にはあった。CDだけが様々な色彩を奏でていた。
音楽サークルに入った理由は、精神的な病気になる前に夢みていたことだったからだ。僕は混乱の中で何者かになりたいと思っていた。僕は大学の音楽サークルに入部届けを出し、何者かになるための階段の一段目として、そのサークルのライブを見に行った。
*
ライブは学生会館の地下で行われていた。おそるおそるその人混みの中にいた。スポットライトが舞台を照らしていた。ギターを弾いている先輩がいた。ヴォーカリストが叫んだ。ベースは地面を揺さぶるように響いた。ドラムは激しくシンバルを打ち鳴らした。観客がゆらゆらと揺れていた。アンプから大音量の音が鳴っていた。壁が振動で揺れていた。空気の震えを感じた。
僕はリズムにあわせて身体を動かした。観客たちの後ろの方から、それでも一番前を見た。音楽が徐々に高鳴り、人々の動きも少しずつ激しくなっていった。自然に身体が震えた。目の前で繰り広げられる演奏は、僕が今まで聴いていた音楽とはまるで違っている生の感触があった。歌はすべて英語でどんなメッセージを放っているのかわからなかった。でもそこにはただ周囲をまきこむような怒りが満ちていた。僕は同じように自分もステージに立ち、演奏をしようと思った。
「このサークルに入部したのか?」そう語りかけてくる男がいた。
「入部したよ。君は?」
「俺も入部しようと思っているんだ」
「格好良いね。先輩たち」そう僕は言った。
「でも、俺はもっと凄い音楽を演奏する」そう彼は言った。
話しかけてきたのは桜井という男だった。背がひょろりとして高く、痩せていた。そして鋭い目をしていた。もちろん中学時代の同級生、不良の櫻井とは似ても似つかない。でもその目だけはどこか同じものを宿していると思った。彼が桜井という名前であることは、ただの偶然だった。しかし帰る方角が同じなだけではなく、住んでいるマンションまで同じだったことは何か神様のいたずらのようだと思う。
「音楽は、魂だ」
桜井はそう言うと、ビールを飲みながら熱く語った。僕の部屋で僕たちは酒を飲んだ。「歌が上手くてギターが上手くても、聴ける演奏もあれば、聴けない演奏もある」そう桜井は言った。空き缶を灰皿代わりにしながら、僕たちは音楽を聴きビールを飲んだ。
「そうなのか?」僕は尋ねた。
「何もわかってないな。人生だよ。きっとヘビィな人生が、歌を歌わせるんだ。俺たちだってそうさ。中学生、高校生、大学生になって、一体、何になれた? 同じ場所をぐるぐるまわっているだけさ。とてもヘヴィだ。でも今、できる限りのことをしよう」
「僕も、演奏だけって言うのはそんなに好きじゃないな。ただテクニックを追求しても仕方ないと思う。僕がやりたい音楽も、そういうのではない。インスピレーションを受けるような音楽。僕がやりたいのはそういう音楽だ」
桜井は僕のCDケースを眺めて驚いた。
「凄く音楽を聴いているな」そう桜井は言った。
僕は自分の持っているCDボックスを眺めた。500枚ほどのCDが並んでいた。
「音楽はどんなものを聴いてもいい。でもバンドをするからには自分の感覚だけではなく、俺の聴いている音楽も聴いて欲しい」
そう桜井は言って「ちょっとCDを持ってくる」と自分の部屋へ戻りCDを持ってきた。
彼はニルヴァーナやパールジャム、セックスピストルズやレッド・ホット・チリペッパーズの音楽を鳴らした。僕もニルヴァーナはよく聴いていた。「音楽は魂から響く。そう思わないか?」
桜井はそう言うと煙草に火をつけた。それらの音楽はとても野蛮で激しく歪んでいた。でも激しく僕を揺り動かしていた音楽だ。特にカート・コバーンの歌は突き刺さった。激しいギターと叫び声は、まるで自分の中にある叫びのように思えた。
彼は何を叫んでいるのだ? でも僕にはそのひとつひとつの言葉の意味がわからなかった。ただ何かを叫んでいる。
「人生はヘヴィだ。とても重く暗い。そういう人生の歌だ」そう桜井は言った。
僕は「そうかもしれない。でも僕はいつか自分の音楽を演奏したいんだ」と言った。
桜井は「日本ではなかなかこんな歌は生まれない」と言った。「ある程度、日本は平和でみんなそんな平穏の中にいる。もちろんすべての日本人が幸せで平和だと言っているわけじゃない。でもこちら側の世界とあちら側の世界はまるで違う。俺たちが歌っている歌と、彼らが歌っている歌は違う」そう桜井は言った。
僕は「でも音楽は響く。音楽は海を越えてここにある。僕らが何かを生み出してもまるで届かないっていうのか?」と言った。
桜井は言った。「俺たちはまだ真似のようなものしかできない。まずは理解することだ」
歌を聴き続けていると、とても奇妙な感覚を味わった。英語は少しも理解できない。でも叫び声はそのまま伝わった。
「簡単には理解できない、深い溝がある」僕はそう言った。
「だから音楽が響くんだ」そう桜井は言った。
僕と桜井は酒を飲みながら音楽を聴き続けた。自分たちの音楽を同じように響かせることが可能か話しあった。海の向こうから届いた深い苦しみの歌。僕はその苦しみに自分の苦しみを重ね合わせた。
「自分の闇がみえる」僕はそう言った。
桜井は「俺の闇だってこの音楽の中にあるんだ」と言った。
ライブ盤の観客の拍手だけが救いだった。僕は心の中で拍手をした。
「カート・コバーンは自殺した」そう桜井は言った。「俺はそのことをおかしなことだとは思わない。それだけの激しい痛みが彼の音楽からは聴こえる。そして、俺たちにはそれだけの痛みがあるだろうか?」
僕は言った。「それぞれに痛みがあるんだ」
僕は桜井に自分の傷口をそのまま見せてやりたかった。でも自分の痛みをそのまま人に伝えることはできなかった。痛みはそう簡単に人と分かち合うことができなかった。
「人生の重みはそれぞれあるのかもしれない。でも誰かの歌を素晴らしいと思い共感することは、きっとその表現をしている人に対しての心の反応なんだ。僕は色んな音楽を聴いてきてそういうことを学んだ。誰かの痛みの前で自分の痛みはたいしたことはないと言うことは簡単だ。そしてそれは喜びも同じだと思う」 そう桜井に言った。
桜井は「俺には俺の人生がある」と言った。「でもお前と音楽をしよう」
僕たちはそうして自分たちのバンドをはじめた。何を目指しているのか。そういうことはわからなかった。自分たちが 自分たちであることを証明する必要があった。まるで未開の民族の青年がバンジー・ジャンプをして勇気を試されるように。それでも心の一番深いところには、優しさがあった。通過儀礼のように自分を傷つけなくてもすむような未来を求めていた。でも社会には深く激しい痛みがあって、そういう声が僕たちを誘っていた。お前にいったい何ができるというのだ? 音楽を聴きながらそういう声が聴こえた。でもその声に負けるわけにはいかなかった。自分たちが自分たちであることを証明しなければ、何か大きな渦に巻き込まれてしまうと僕は思った。
*
音楽サークルでは、5月に最初のライブがある。それまでにメンバーを集め、曲を決め、演奏をしなければならない。僕はピアノが弾けた。正確にはMacBookを使用してキーボードが弾けた。桜井はベースが弾けた。だからドラムとヴォーカルが必要だった。僕は心の中でただ歌が上手いだけじゃない、本物の歌い手を見つけたいと思っていた。そしてドラムはフィーリングがある奴を探していた。志はあっても僕と桜井はふたりっきりだった。ふたりでスタジオに入り、オリジナルのフレーズでセッションした。
コンクリートの打ちっ放しでできた大学のはずれにある学生会館には、各サークルの部室があり、その地下にはちょっとしたバンドスタジオがある。バンドスタジオにはマーシャルのアンプとフェンダーのアンプがあって、ギターを弾く人間にとってはしっかりとした環境がある。僕は自分のMacBookとキーボードをライン接続し、いくつか音を出してみた。
最初に弾いたのは月の光のフレーズだ。桜井はベースをアンプに繋ぎ、レッド・ホット・チリペッパーズのフリーのようにベースを弾いた。
まだそれぞれが音を出し始めたばかりだった。僕は音をシンセサイザーに変えると攻撃的なフレーズを弾いた。うねるようなシンセベースで挑発した。桜井はその繰り返されるシンセベースに対して本物のベースで返事をした。
「セッションをしよう」そう言った。
「アドリブでいいのか?」桜井は聞き返した。返事をせずにシンセベースに四つ打ちのドラムの音を加えて鳴らした。
静かにサンプリングされたドラムの音が響いた。規則的な機械音だ。僕はその音に併せてピアノの音を叩きつけるように同じコードをリズムよく響かせた。続けて桜井がベースを弾いた。
弾けてしまいそうな僕らの魂が、少しずつ会話をはじめた瞬間だった。桜井がフレーズを変化させると、僕もその変化に追随した。でも、そこにはまだ生きている音楽はなかった。僕は演奏を続けながら、激しくドラムを求めた。
このアウシュビッツのような現実が嫌だからと言って、銃を持って立ち向かうわけにはいかない。それは僕が決めていたことだった。多くの音楽を聴き、考えてきたこと。それは社会に対してテロ行為を行うことではなく、心のこもった魂の音楽を響かせることだった。偉大なアーティストたちは笑顔で生まれてきただろうか? 僕はいつも自答した。きっとそうじゃない。彼らは苦しみ、その苦しみのぶんだけ心を響かせてきたのだ。僕も自分の人生に対して尊厳を持って音楽を生み出そう。それが今できる精一杯のことだった。
5月のライブでは新入生が中心となったライブが開かれた。ギターバンドが主流だった。コピーバンドも多く、僕たちは異質だと感じていた。なにしろたったふたりで舞台に立つのだ。でも桜井は「ふたりでもできることはある」と言った。
まだ誰も本物の音楽を手にしていないようだった。本物のグルーヴはそう簡単には生まれていなかった。でも僕はそのライブの中でストーンローゼスのコピーバンドを見つけた。イギリスのマンチェスター地方で結成され、たった2枚のアルバムを残して解散したバンドだった。でもドラムは本物のストーン・ローゼスのドラムのようにドラムを叩いた。
僕らは彼に声をかけた。彼のドラムは荒削りだが、本物のグルーヴがあるような気がした。
僕らはステージに立つと彼に聴かせるように演奏をはじめた。
最初にビートだけを響かせた。僕はマイクを持つと僕たちにドラマーはいないと言った。
そして最初のフレーズを小さく弾いた。同じコードをリズミカルに。そこに桜井がベースを加えた。まだパズルのピースが欠けていた。でもその欠片に生命があることをみせなければならない。
小さい音の響きを少しずつ大きくしていった。ベースは徐々にうねりはじめる。僕はそこに波のようなピアノを加えた。波打ち際で聴こえるあの音のように。桜井は時の流れのようにベースのフレーズを反復させた。雲が激しく風の中で変化していた。やがて大きな波を起こす。そういう予兆があった。僕らは観客がその波を感じるように演奏した。変化ははじまっている。僕はそう囁いた。
僕らの演奏は最初はそれだけだった。そして時間という音楽の中で一番大切なリズムを欠いていた。
でもローゼスを演奏していたドラマーの安田玲二、僕らはその名前の偶然をからかってレニと呼んだけれど、玲二は僕らを面白がってくれた。
レニはあまり背が高くない。でもドラムを叩くには丁度良い体格をしていた。力もありそうだった。「僕らのバンドでもドラムを演奏してくれ」そう僕は彼を誘った。レニは「ドラマーって言うのは、面白そうなところには顔を出すものだ」と言った。
彼は良い奴だった。その証のように笑顔を浮かべた。僕はそんな彼の笑顔に魅せられた。
*
しばらくは僕たちのバンドには何の変化もなかった。桜井はしょっちゅう先輩の自宅を訪れては、パンクミュージックについて熱く語っているようだった。レニは毎日ドラムを練習していた。僕は時々その練習に顔を出してピアノを弾いた。ドラムとピアノ。ふたりでもセッションは面白かった。
「感じるものがある」そうレニは言った。僕は「自由に弾ける」と言った。
時々桜井はこの練習に参加してベースを弾いた。三人で演奏していると大きな時のうねりがみえるような気がした。それでもまだ何かが欠けているかもしれないと思った。パズルのピースは3つだろうか、4つだろうか。僕は考えた。僕が練習の後でレニに尋ねると「もちろんヴォーカルは必要だ」と言った。桜井も同意見のようだった。「3人でグルーヴを生み出すことはできる。でも本当に3という数字は正しいのだろうか?」そうレニは言った。
*
時々は、僕も気が向くことがあって、大学の授業に参加した。僕は出欠をとらない授業ばかりを選択して、レポートだけで成績が評価される授業ばかりを選んでいた。だから実際に授業に出る必要はなかった。それでも時々は自分が大学生なのだということを思い出して授業に出た。いくら単位が取りやすい授業ばかりを選んだといっても、僕以外の多くの学生は、真面目に授業に参加している。だから、ひとつひとつの授業に時々顔を出すと、僕だけがたったひとりどんな知り合いもいない孤独な人間であるように思えた。
たまたま出た授業では、心理学の先生が授業の最後に「好きなことだけを続けていると不幸になる」という僕に言わせれば心理学とは全く関係のない持論を展開していた。みんなそういう授業の先生のありがたい話を真面目に聴いてそうだと思っていたのだろうか。僕が好きなアーティストたちは、みんな自分の心の奥深くにある声を聴くように言っていた。でも学校では、そういう心の声のことなど誰も教えてくれない。自分の心の奥にどんな囁きがあり、願いがあるのか。心について学ぶということを僕はそういうことだと思っていた。けれど、授業では自分の心の声よりも、社会のために仕事をして、奉仕する、そういう定まった人生について語られ続けている。僕にとっては大学は真理を探究する場所ではなく、ただ就職活動をして、履歴書の書き方を学び、企業に就職するための就職予備校でしかなかった。誰も何か世の中に対して新しい発見をして、新しい世界をつくるとまではいかないにせよ、新しい恩恵をもたらせる。そういったことの為に学問をしているわけではなかった。ただどこまでも続くレールに沿って、時間を過ごしているにすぎない。僕が入った大学がそうだったのか。どこか違う世界の大学なら、生きることの本当の意味を教えてもらうことができたのだろうか。
*
部室にはひとり女の子がいた。イヤフォンをして音楽を聴いていた。髪は長く、目をつぶっていた。とても気持ちよさそうにひとりでいた。僕はそれでも部室に入った。
彼女は僕に気づくと少し笑顔を浮かべた。「桜井くんと演奏していた人でしょ?」
「ここのサークルの人?」と僕は訊いた。
「うん。この前のライブにはバンドが間に合わなかったんだ」そう彼女は毛先を指で触りながら言った。
僕はどんな音楽を聴いているのか質問した。
彼女はビョークや宇多田ヒカルなど様々なシンガーの名前を挙げた。「わたしも彼女たちのように歌を歌いたい。でもただ彼女たちに憧れているのではなく、自分の歌を」そう彼女は言った。
僕はその答えを完璧だと思った。誰かに憧れていても自分が自分であることを証明しなければならない。それは僕も同じだった。僕は彼女も自分と同じように考えていると思った。
「僕らは歌い手を必要としている」そう言った。「自分の言葉で表現することができる歌い手を」
彼女は目を一瞬大きく見開いた。「何ができるかわからない。楽器は少しピアノが弾けるだけなの。でも自分で歌ってみたいといつも思っている」彼女はそう言った。「でも、自分は自分が思っているよりは何もできないんじゃないかって思うこともあるよ」
僕は頷いた。「でも誰かはいつも言ってくれる。やってみなければ何もしなかったことと同じだって」
「やってみなければ何もしなかったことと同じ」そう彼女は言った。
彼女は浅井という名前だった。「練習に参加してみたい」彼女はそう笑顔で言った。
その後で僕は自分の昔話をした。病気になってずっと音楽ばかり聴いて、誰とも話さずに過ごしてきたことを話した。誰の前でもそんなふうに弱い自分を話すことはできなかった。でも彼女は「あなたの中には無数の音楽がある」と言った。
「あなたもわたしもまず自信を手に入れることが必要だね」と彼女は言って微笑んだ。
桜井とはいつも高鳴るような夢の話をした。けれど、浅井には自分が小さく臆病でいつも悩んでいることを話せた。それは何か彼女自身が持つ魔法のように感じた。でも浅井は「でも、別に病気に見えないよ。普段は誰もあなたがおかしいなんて思わない」と言った。「逆に特別な何かがあるように感じられる」
僕はなぜ浅井の前でこんなふうに自分のことを話せるのかわからなかった。彼女には世間のどんな色もついていない。そう思った。偏見とか差別とかそういうものは彼女からは感じられなかった。彼女はシンプルな格好をして、静かにいつも音楽を聴いていた。でも僕は彼女のシンプルさの中に彼女の相手を受け入れる空白のようなものを読みとっていた。
「僕は夜中じゅう起きて鍵盤を弾き、朝になると眠る。大学の授業が終わる頃に 部室に来て、バンドの練習をする。魂のこもった音楽が演奏したい。いつもそう思っている」
僕は浅井にそういうことを話した。浅井は別におかしなことじゃないと言って素敵な笑顔を浮かべた。
「わたしも歌いたいけれど何を歌っていいかまだわからない。でも何かを見つけてみせる」そう彼女は言った。
「じゃあ、僕は何か曲をつくるよ。何か浅井が歌いたくなるような曲を」そう僕は言った。
*
何も思いつかない空っぽの夜にはピアノを響かせ続けた。コード進行を変え、リズムを複雑に変化させ、歌声を想像する。そのうちの幾つかの流れ、僕が展開と呼んでいた構成の変化は、探り続ければまだ自分だけの新しい音楽の可能性をどこかに残してくれているのではないかと思った。
誰も聴いたことのない曲。誰も聴いたことのないメロディライン。そしてその展開。こうなればこうなるというその流れを人は予期するけれど、想像を超えることが必要だった。ヴォーカルのソロからリズムが加わり、静かにベースとピアノが加わるところを想像した。悪くないアイデアに思えた。でも そういう曲も、どこかで誰かが作った流れだ。全く新しい流れではない。
僕はピアノから手を離し、黒いカバーのベッドに横になり、天井を見上げて煙草を火をつけずにくわえた。自分が宙に浮かび上がるところを想像した。天井を通り抜けて、夜空に浮かぶ。星が遠くで輝いていて、風に僕は揺られている。音楽は、聴く人にそんな夜の自由を伝えることができるだろうか? 空に揺られながら浮かぶ僕は、風がどこから生まれているのかわかっている。夜がゆっくりと朝になるまでのささやかな静けさであることがわかっている。でも それを伝える方法がない。どうすれば音を通じて、感じていることを伝えることができるだろう。
僕はそっとその夜空に浮かぶ風と僕のためにハミングした。そしてこの気持ちを伝えるには言葉が必要なのだと思った。
僕はその夜、浅井のことを思った。この夜空の下のどこかのマンションの一室には彼女がいて、自分と同じように自分の歌を探し求めている。そう思うと、僕は煙草をくわえることをやめてまた自分の音楽を探しはじめた。
*
「完璧な音楽って何だろうね」
浅井は部室で僕が貸した音楽を聴きながらそう言った。
「完璧な音楽?」僕は訊き返した。
「どんなものかわからない」
「でも聴いた人に完璧だと思われるぐらい、素晴らしい音楽はあるでしょ?」
そう言うと、浅井は僕の答えを待った。
僕は沈黙を続けながら考えていた。「完璧な音楽なんて、きっと存在しないよ。でも、自分が完璧だと思えるまで磨くことはできると思う。自分が納得するまで演奏を続け、愛される。そういうことをみんな目指しているんじゃないかな。完璧なんてないけれど、だからこそ そういうものを目指す」
浅井は僕の言葉を聞きながら考えた。「私たちはまだまだ完璧なんてものにはほど遠い、とても未熟な存在だと思う。でも、いつか人に届く音楽を届けることができるようになるのかしら?」
僕は「そうあろうとし続けることが大切なんじゃないかな?」と言った。
浅井と話すのは、大抵、部室だった。ふたりっきりでどこかへ行くなんていうことはなかった。僕たちは部室に集まってこれから作り上げるバンドのことを話し続けた。浅井のイメージを聞き、どんな音楽が好きで、どういうふうに考えてきたのか。なぜ大学で哲学科に入学したのか。そういうことを聞いた。
浅井にも僕にも完璧な存在のなさということの本当の意味はわからなかった。 僕たちは自分たちが好きだと思う音楽を語り合い、お互いの価値観のようなものを共有しはじめているにすぎなかった。僕も彼女も遠い未来に思いを馳せながら、まだ子どもだった。いつかこの部室も、バンドもすべて過去の記憶になってしまうということがわかっていなかった。でも、僕には浅井が投げかけた完璧な音楽とは何かという問いは、今も心に響き続けている。そう。あの時、僕はそんなものはなくても、その場所へ向けて最善のことをすることが音楽を作る本当の意味なのではないかと答えたのだった。
浅井はよく晩御飯を学食で食べながら、何も言わずに僕の作った歌を繰り返し聴いてくれた。その音源には、僕が仮に歌ったメロディラインがあったから、僕はできるだけ、僕の歌は気にしないでと、何回も話してから聴かせた。
学食の椅子に座りながら、浅井は注意深く複雑なメッセージを解読しようとするようにヘッドフォンに両手をあてて、深く音楽を聴きこんでいた。
簡素なテーブルと椅子が食堂には並んでいて、僕たちはその隅でふたりっきりでいた。
10分。15分。何度も浅井は僕の歌を聴いてくれた。そして、ようやくヘッドフォンをとると「これ。私が歌っていいのね」と言った。
僕は「もちろん」と答えた。
「何度も聴くよ。きっと私にも何かがみえそうだから」そう浅井は言った。
僕らのそういうやりとりは、夏の間中、続いた。僕は曲を聴かせるたびに浅井が一生懸命イメージを膨らませようとしてくれる、その両耳を手で押さえるしぐさがとても好きになった。
*
僕と桜井とレニは何度もセッションを繰り返していた。僕らのグルーヴは徐々に高いところを飛ぶことができるようになっていた。そして僕はメンバーに浅井のことを話し、自分の曲を浅井に聴かせたように聴かせた。そろそろ浅井と一緒にスタジオに入ってもいい時期だった。
秋のある晴れた日、僕らは浅井を迎えて演奏をはじめた。スタジオは汗が飛び散っていて清潔ではなかった。でも浅井はそんなことを気にしていないようだった。学生会館の地下にあるスタジオは、防音がよく効いていてどんな音も外へは漏れない。僕たちは静かに新しい歌の演奏をはじめた。
レニがカウントをした。桜井がベースの音を鳴らすタイミングを待っていた。僕はキーボードの音をピアノにセットし、鍵盤の前にいた。浅井はマイクを両手で持ち、言葉にならないメロディを歌いはじめた。
それは天から届くはじまりの音のように響いた。静かに桜井がベースを加えた。レニはそっと静かにハイハットを叩いた。さざ波が聴こえるような気がした。僕は浅井の歌を支えるようにピアノを弾き始めた。
もちろん最初からすべてがうまくいくわけではなかった。でも僕たちは心を揺さぶられた。静かに部室にいる浅井ではなかった。美しい声があった。特別な響きがあった。僕たちは自分を抑え、その歌のために演奏をした。地下のスタジオは防音が整っているのに、音楽はどこまでも響いているような気がした。浅井は最初のヴァースを歌うと静かにリズムに揺られた。僕たちはその踊りをもっと激しいものにしようとリズムをベースをピアノを高まらせていった。浅井が両手を天にかざした。そこで僕たちはすぐに静けさを作り出した。浅井がまた最初のヴァースを歌いはじめた。あなたに会いたい。僕にはそういう声が聴こえた気がした。リズムはまた徐々に静けさからうねりを生み出していた。僕はピアノを弾きながら海がみえると思った。彼女は太陽の輝きのように歌った。月の静けさのようにささやいた。昼と夜で海の景色は一変していた。
僕たちがひとつのバンドになった最初の瞬間だった。レニがずっとドラムの練習を続けてきた日々を思った。桜井の中にある熱い血を感じた。そして自分が闇ではなく光を求めていることを知った。
鳥が羽化した瞬間だった。大きく翼を広げた。そして巨大な海を越えようとしていた。どこまで飛ぶことができるかわからなかった。でも僕らは巨大な海を超えるように羽ばたきはじめた。
Bird1。僕がバンド名を口にした時、誰も異論をはさまなかった。それぞれがしっかりとした個性を持っていた。桜井は過去の音楽から溢れるような肉体性を持ち出してベースを弾くことができた。レニはずいぶん昔からドラムを叩いていて、僕らの音楽にはっきりとしたリズムを刻んでくれていた。そして浅井は美しい声を持っていた。僕はMacintoshから様々な音を生み出すことができた。4人であることはバンドにしっかりとした安定性をもたらしてくれた。男が3人、女がひとり。悪くない。4つの響きは ひとつの音楽になって溶け合うようだった。僕はその響きを外へ開放したいと思った。僕は僕らがライブをするところを想像した。浅井が紡ぐ言葉を思い浮かべた。
*
ピアノからは僕の思いが溢れ出していた。美しい旋律だ。そこにはまだ何も傷ついていない純粋な魂のようなものがあって、その純粋な魂だけをそのまま取り出そうとしていた。浅井から何か特別なものを受けとっている。そう思った。イメージは飛翔しはじめていた。僕らは鳥になって大地を遥か見下ろして飛んでいる。空はどこまでも広く自由がある。大きな河が眼下にあって、そのほとりに宿り木をみつける。静かな愛を交わす。でも、また大空に飛び立っていく。鳥と鳥は一時、その愛を交わして、また空へと飛んでいく。でも、そのままではだめだ。僕は美しい森を見つけなければならないと思った。
僕はバイクに乗って森を探し始めた。街を南へ南へ走り続けた。普段は大学と市内に行く程度だからその先に何があるのかわからなかった。ただ僕は実際に河が流れるその源流にある森をみたかった。けれど河をさかのぼって走り続けるとどちらが北でどちらが南という方向感覚のようなものがわからなくなり始めた。河はうねりながら山へ向かって流れていた。大きなカーブがあり、曲がりくねっていた。とても大きな長い河だった。僕は飛ぶことはできなくてもその源流に向けて走ることはできると思った。
僕は何度もコンビニエンスストアで休憩した。しかし徐々にコンビニエンスストアを見かけることも少なくなってきた。風は冷たく周囲にあった田畑もだんだん少なくなってくる。枯葉が地面に落ちている。本格的な冬が到来ししようとしていた。それでも河は流れていた。
その途中に大きな森があった。誰も人が足を踏み入れたことがないような森だった。僕はバイクをとめると、その森にそっと足を踏み入れた。風が静かに吹いていて、生きているものは何もいないという気がした。
奥深くに何があるのだろうと思いながら、歩き続けた。そういえば昔、近所の森に秘密基地を友だちと作って、その山の持ち主にずいぶん怒られたっけ。そういうことを思い出しながら山を歩いた。山や森や自然は本来誰のものでもなかった。
空気を吸いこむ。深い呼吸だ。太陽の日差しを感じる。冬だから太陽の光は少し弱まっている。でも、空気はとても澄んでいる。ひとつ呼吸をするたびに時間が動いていることを感じる。鳥の鳴く声が聴こえる。その声に誘われていると思う。誰かが呼んでいる。女性たちの声だ。少し笑っている。微笑みかけている。誘っている。もっと自由になるように。
森の中にいると、ものごとの本当の有り様がわかるような気がした。その奥には愛があってしっかりとした温かさがある。
森の樹の高いところにその鳥たちはいて、どこかへ向けて鳴いていた。僕は鳥の真似をして鳴いてみた。でも鳥には僕の言葉はわからないようだった。鳥には鳥の世界があり、人間には人間の世界がある。そして歌なら鳥ともコミュニケーションがとれるかもしれないと思った。
僕は森の中で自分たちが今つくっている歌のメロディを歌った。鳥は翼を広げるとより高い枝へ向けて少し飛んでみせた。少しは伝わったのかもしれなかった。森には僕と鳥たちしかいないのかもしれない。でも鳥たちに向けて歌を歌うことにはとても新鮮な驚きがあった。僕と鳥との間には、人間同士以上に深い河が流れているかもしれないと思っていたからだ。でも、そんなことはない。鳥のほうがあるいは僕の歌を歌そのものとして聞いてくれているのかもしれない。そういう予感がした。
鳥が鳴いた。そのメロディを聴いた。 何を求めて鳴いたのかわからなかった。ただ歌を歌っているのかもしれなかった。でも鳥は鳴くのだ。そしてそれは僕だって同じだった。
鳥のために歌を歌った。鳥はまた高い枝に移って、そして歌を歌った。
鳥はいつ飛ぶのだろう。鳥が飛び立つところをみたかった。僕も連れていってくれ。そう願った。でも、季節は秋から冬へ本格的に移ろっていて、その鳥はどこかから飛んできて、そしてその森にいるのかもしれなかった。
*
ライブハウスでサークルのライブが12月にあった。ステージ上ではPAを担当している先輩がサウンドチェックをしていた。舞台の上で聴こえる音と観客に聴こえる音は違う。舞台上で演奏をしていて、その音がそのまま観客に聴こえるわけではない。でも、舞台で演奏している音と、観客が聴く音ができるだけ同じになるように、PAのチェックは続く。ベース、ドラムのスネア、ハイハット、バスドラム、ギター、キーボード、そしてボーカル。ひとつひとつの音が重なってひとつの曲になる。ひとりひとりの出す音が広がって重なり合い、ひとつのバンドになる。ひとつひとつのバンドの演奏があわさってひとつのライブになる。
僕たちは小さなステージに立った。前のバンドの熱狂がそのまま残っていた。僕はMacintoshをアンプに繋げるとYesterdayのサビの部分をピアノで演奏した。過去は変わることなく存在していた。レニがドラムをセットし終わると、はじめようと言った。桜井のベースも準備ができているようだった。浅井は静かに目を閉じていた。
僕は最初のピアノを弾き始める。静かに、心に残るように。リバーブとディレイが僕の演奏の響きを繰り返す。浅井がYou are flyingと囁く。ベースが低音から静かにうねりはじめる。低いところと高いところを行ったりきたりする。ドラムのレニはそのグルーヴを静かに開放しつつある。ハイハットにスネアを巧みにまぜる。浅井がファルセットのヴォイスでできる限り高い声を響かせると、僕らは本格的に飛翔しはじめた。身体に電流が走る。観客も何かを感じているようだ。リズムが魔術的に繰り返される。その上を僕と浅井が交互に駆け抜ける。
風が吹いているようだった。雲を突き抜けて青空を目指していた。はるか眼下に雲がどこまでも広がる。鳥たちの楽園がある。4羽の鳥はとても高いところを飛び続ける。どこまで飛べるのかその力を試しはじめている。1羽がはぐれそうになると、もう3羽の鳥が鳴いて、はぐれないようにそっと促す。太陽の光がどこまでも世界を照らしている。雲はその光の反射によって、見るものに天上の世界があることを教えてくれてる。浅井が囁くように歌い続けている。すべての悲しみがなくなるように祈っている。導くように踊っている。僕はピアノの鍵盤のすべてを使うように演奏する。どの音も素晴らしい響きを宿している。空はどこまでも澄み渡り、雲の切れ間からみる大地は美しく輝いている。急降下すると美しい森をみつける。木々は時を超えてそこにある。大地も変わらずそこにある。虎たちがあくびをしている。シマウマがひっそりと草をかんでいる。さらに飛ぶと大きな湖がみえる。その向こうに虹が天へ繋がる道をつくっている。僕たちは鳥になって その虹を駆け抜けるように飛ぶ。音はどこまでも空気を震わせている。浅井は祈るように歌い続ける。僕たちが失速してしまわないように。運命は今ここにあって新しい世界をみせている。その中をどこまでも飛び続ける。
太陽がなんども繰り返し昇る。月が姿を変えながら輝き続ける。僕らはその中で何度も生まれ変わりながら、すべての苦しみが消える日のことを願う鳥だ。
沢山の争いがあった。多くの生命が死んだ。でも魂はずっと世界に残っていて受け継がれている。浅井はそんなひとつひとつの魂と交信するように歌った。心が震えていて演奏が乱れそうだった。でも浅井を支えなければならない。心の中に正しい祈りが宿ったような気がする。あらゆるもののために僕はピアノを響かせ続ける。
演奏が終わった後、拍手が響いた。はじめて受けとった拍手だった。もちろん 浅井が主役だった。でも僕たちの音楽はサークルの人間に認められたようだった。
その夜、酒をのんで沢山笑った。まだ 大学の最初の1年が過ぎようとしているにすぎなかった。でも僕はどこまでも浅井や桜井やレニと飛んでみようと思った。
*
時がどれだけ過ぎても音楽は内側にあった。うねるようなドラムと躍動するベース。奏でられた歌声。そして世界を描き出すピアノ。音は心を癒すように響く。Macintoshはあらゆる音を生み出すことができる。
部屋の中は黒で統一されている。真っ暗な部屋で夜中じゅうピアノを弾き続けている。僕はおかしい。でも音は真夜中に美しく響くことを知っている。
冬になって大学が休みになると、それぞれが戻るべき場所へ帰った。
桜井は地元が大学とそれほど離れていないから、そのまま冬を過ごした。レニは遠く離れた故郷へと帰った。浅井は姿を消した。桜井と僕はしばらく練習はできないなと言った。
地元へ帰ればよかったのかもしれない。正月は帰省もしたし、そのまま実家にいてもよかった。冬はひとりでいるには寒すぎる。でも掴めそうで掴めないものは、この大学や街にある。凍える冬をやり過ごすことは大変だけど、真夜中にひとり音楽を響かせ続けると、いつかひとりではなくなるという気がした。
最後に本物のピアノに触れたのはいつだろう? 生のピアノの音を思い出すことができない。だからこそ美しいピアノの音を求めて何時間でもMacintoshを触ることができた。心をそのまま世界中に解放するような音。そんな音があれば、何を描くことができるだろうか。想像の中では可能性は無限に広がっている。実際に鍵盤を弾いてみるとイメージとは何かが違う。もっと想像の中にある音をこの世に現出させたかった。でも音楽は心の奥にあるだけでは誰にも届かない。だから自分が演奏することができた欠片を幾つも記録として残し、まるで雪がずっと降り続けているようにしまいこむ。
並べられたCDを取り出すことはなくなっていた。CDだけが部屋を彩るオブジェだ。音楽はすべてMacBookの中にある。また検索すれば様々な音楽がネット上にアップされている。自分の心に響く音楽を探して、インターネットの海を漂う。
様々な音楽を聴き、そこにどんな思いがあるのかみまわす。彼らの音楽には、それぞれの世界観や、触れることができた愛や、世界に対する憎しみがあった。音と同化し、自分の心がどんな音に感じるのか理解しようとする。あらゆる音楽は歴史という時間の中に埋もれている。そこへ深く意識の振り子の鎖をおろす。揺さぶる音の在り処がどこにあるのか、しっかりと見出すために。
*
時々は散歩にでかけた。いつも真夜中だ。近くを流れている河辺に辿り着き、上流へと歩く。河川敷には誰もいない。でも風が髪を撫でた。もうひとりではない。自分には何もないと思ってたけれど、桜井やレニはともに音楽を演奏してくれる。そして浅井がいる。
まだ荒削りだったが、ライブで演奏することができた。目指す音には遠くても、心震える感触があった。でもそれは一夜だけおきた奇跡のようにも思える。
音楽を続けて何になるだろう? 言葉にするとすべてが嘘のように感じた。
たったひとり音を紡いでも、笑うことはできない。自分には大きな欠陥があって、心は闇夜に沈んでいる。でも音楽を響かせている間は輝きのない光がみえる。その光を追い求めている。
夜の静けさの中で流れる河の音を聴いていると、できることはそこにあるものをそのまま響かせることだけなのかもしれない。
鳥たちはどこにいるのだろう? 真夜中には鳥たちが美しく空を飛ぶ姿をみつけることができなかった。流れを大きく飛び越えていく姿。探したけれど、鳥たちは月で静かに羽を休めているのかもしれなかった。
ある夜には、桜井が部屋に遊びに来て、ビールを飲みながら音楽を聴く。
まるで子どもの頃のようにすぐ近くに友だちがいて感覚を共有する。
桜井は言う。
「俺はさ、古い音楽が好きなんだ。ベースを弾いて手で触れることができる感触が。お前のよく聴くエレクトロ・ミュージックだって悪いわけじゃない。今の時代の音だったり、未来の音だったりと感じることもある。でもな。音楽はずっと流れているんだよ。肉体的なものを忘れてしまったら、何のためにベースってものがあるのか、わからなくなってしまう」
その夜、Macから流れる音は確かにエレクトリックなものが多かった。そして桜井が何を言いたいかはわかるような気がした。
「電子音楽は個人的な音楽だったり、無機質だったりするのかもしれない。でも最近はだから良いのじゃないかって思う。コンピュータを通して響く音だから、より個人的なものが描きだせる。それぞれの音色のバリエーションやリズムが、より複雑で高度な個人性をあらわしている。でもひとりで生み出す音楽は演奏したくない。桜井が自分の感性でベースを演奏してくれる。レニが複雑で有機的なリズムを生み出してくれる。みんなで演奏することが音楽を特別なものにしている」そう僕は言う。
桜井は言う。
「俺は自分のまま、高く飛べることを感じられればいいのかもしれないな」
桜井の聴く音楽は肉体的で荒々しいものが多かった。電子音楽を聴かないわけではない。でもパンクミュージックや90年代のオルタナティブなバンドサウンドを愛好していた。それはかつてあったものを取り戻そうと過去を探るような深さがあった。でも桜井は演奏を飛ぶと表現した。その意味の違いを考えながら、話を続ける。
「ベースという楽器が低い音で躍動すればするほど、飛び跳ねたくなる。桜井は自分の音を持っているし、磨かれている」そう僕は言った。
「わからないけどな」桜井は言う。
エレクトロ・ミュージックを聴きながら、ふたりでずっと酒を飲み続ける。テーブルにはいくつかの空き缶が並んでいった。
桜井のベースには熱さがある。確かに音楽が桜井をあらわしているように思えた。僕はどうだろう? 自分で自分の音の響きを考えても、まだわからない。何が自分を自分たらしめるのか。それは形のない影のような疑問だった。
まだ自分というものが定まっていない。そして浅井はそのことを未熟だと言った。でも自分が自分であるということを手にした後には、きっと自分からは逃げられない。
新しく時代を切り開いたミュージシャンたちの音楽を聴きながら思う。この人たちに起きたこと。その人生。苦み。そして救済。
ずっと音楽を奏で続けていて、だからこそこの音はこの人だと聴いてわかる。そういうアイデンティティを手にして演奏を続けている。もちろん個性を手にするまでには様々な旅があり、越えなければならない壁があったろう。
彼らの音楽のはじまりから、アルバムを何枚も聴く。
無数にいる音楽家の中から新しい時代を感じさせる予感とともに登場する。その音を変化させ、どこまでも可能性をみせ続ける。それはパーソナル・ヒストリーのようでもある。絶え間ない変化の後で、彼は彼で、彼女は彼女だというものが音楽の中にある。
幸運なミュージシャンは60歳になっても音楽を続けているかもしれない。でもほとんどのミュージシャンはどこかで音楽をすることを諦めてしまう。
自分たちはまだ入り口にも辿り着けていない。可能性は無限にあって、自分というものが何なのか、考える時間がある。大学で学ぶということ。期限はあるが自分の可能性を懸けた確かな時間が流れている。もし時間というものの大切さに気づくことができれば、いつからでも可能なことだ。自分がまだ定まっていないことを確認しながら、できるだけのことをすることを決意する。
翌日の朝の二日酔いは酷かった。ベッドにみえない何かで固定されてしまったように身体が重く、起き上がることも難しかった。部屋には空き缶が散乱し、灰皿は煙草で溢れていた。そういう朝を迎えるたびに酒なんて飲むものじゃないと思う。でもシャワーを浴び、部屋を掃除し、窓を開けて空気を入れ替えると、不思議に気分はましになった。
掃除の後で時刻は正午をまわっている。食欲はない。それよりも身体を動かしたい。冬の最中だったけれど、曇り空の中、見上げれば小さな太陽がみえた。
ジョギングシューズを履き、真夜中にしか訪れなかった川沿いを走る。
夜にはみえなかったものがみえる。
遠くまで続いている電線。河川敷を揺れる草のゆらぎ。どこかからやってきた釣り人の竿から垂れ下がる糸。光に反射する水面。そして河の流れとともにどこまでも続くあぜ道。
静かに走り始める。どこかまで走った後は、帰らなければならない。でもどこまでかは走ることができる。少しずつ遠くに向かって走ることができるよう、両足を動かす。
肉体的なものを忘れずにいること。桜井が話していることは一貫している。それはひょっとすると彼が教えてくれていることなのかもしれない。
その日から少しずつ前へ走り始める。
*
春が近づくとレニから帰ってきたという連絡があった。彼とスタジオに入ることができると思うと嬉しかった。練習熱心でいつもリズムを探求していた。彼がいないと音楽は針のない時計のように何かを見失う。叩くスネアの音や、ハイハットのリズム、バスドラムの振動を思い出すだけで楽しくなる。誰かとセッションをしたいと思った時に、いつでも肯定の返事を返すのは彼の基本的な人の良さだ。そしてもし僕がいなくても、ひとりでスタジオに入り、丹念にドラムセットをセットアップし、練習をする。
たとえばコンピューターを使用するミュージシャンなら、いつでも自宅で音楽を響かせることができる。でもドラマーはそういうわけにはいかない。スティック2本をいつも持ち、どんな場所でリズムを刻むことができたとしても、実際のドラムを叩く感触は違うとレニは言った。
「ドラムを演奏することは頭で考えてするものごとと少し違う」
僕は話の続きを待った。
「ひとりで練習をしていると、時々ドラムを叩きながら踊っているような気がする。まずお気に入りの音楽をイヤフォンから流す。気分によって、ジャズやヒップホップ、テクノ、ポストロックなどを聴く。そのグルーヴに合わせて簡単なリズムを叩いてみる。でもそれだけではたりない」
そう言うとレニは少し微笑む。
「ひとりでリズムの世界にいると孤独を感じる。バンドで演奏している時は違う。より周囲に重ねあわせ、リズムを創造している。まわりの音があるから自分は自分でいいという気持ちになれる」
春までには雨が時々降ったけれど、気温は暖かくなりつつあった。
ドラムとMacintoshでどんなグルーヴが生み出せるか。レニはハイハットを叩く強弱に変化をつける。スネアをどの角度からどれぐらいの強さで叩けばいいか試し続ける。
時々は桜井も顔を出して、地脈のうねりのように空気を震わせる。レニはベース音にあわせてバスドラムを響かせる。規則的なリズムから少しずつ変化を加えてグルーヴを加速させる。ふたりの演奏はリズミカルなパズルみたいだ。
リズムに呼ばれて、幾つものフレーズをひきだしてみる。音を絡ませ、弱く、強く、弾いてみる。静けさを生み出し、アルペジオをまぜる。隠された暗号を解読するように音を変化させる。
フレーズを繰り返す。感情をこめてみる。
時に、低いところからいちばん高いところを目指す。
魂はそれぞれにある。そしてそこから音楽が生まれている。ただ誰かを真似しているのではなく、決まった形をなぞっているのでもない。ひとりひとりの閃きがある。混じりあい、瞬間に相手の音とみあう音を探している。複数の視点から世界を描き出すように。
様々な断片が積み重なり、呼吸までかさなる。演奏を終えた後は、複雑なプログラムを走らせた後のCPUのように熱い。
練習を終えると、地下にあるスタジオから地上に出て、桜井と僕は煙草を吸う。
レニはドラムスティックをくるくるまわしている。
「彼女はいつ帰ってくるんだろうね」
そうレニは言う。
*
浅井に連絡する方法はあった。でも結局、連絡はしなかった。別に連絡すれば良かったのかもしれない。話すことはたくさんある。でも浅井に対する想いをどう考えていいのかわからなかった。
新しい学期になる前に決めていたことは、大学の授業にもっと参加することだ。レポートで単位はとれても、それだけでは足りない。自分がまだ可能性のある存在であることを理解できたから、広げようと思った。履修すべき講義を選択する。哲学や心理学、音楽史や歴史学、文学、IT系科目など自分の関心には偏りがあったが、必修の科目以外に講義を聴きたいと思う授業を探し続けた。また桜井がとっているからという理由で仏教系の科目も履修登録した。
1年が過ぎていたけれど、これからようやくちゃんと大学生活が始まるという気がした。
ようやく浅井に会ったのは、授業の合間に部室にいる時だった。
先輩たちもいたし、ふたりきりだったわけではない。でも久しぶりに顔をみて安心感を覚える。季節が変わったからといって、浅井は急に大人になったり、年をとったりということはなかった。彼女はまだ彼女のままだ。
浅井に惹かれているのかもしれない。まるで子どものように姿をみかけると笑顔が浮かぶ。読んでいる本のことを訊き、読み終えたら貸して欲しいと思う。
僕の想いに浅井は気がついていないようだ。ヘッドフォンをして、本を読んでいる。歌う時は、結んでいた髪をふりほどいて歌う。普段の浅井は、もの静かに音楽を聴きながら本を読み、時々誰かと話しては、またしっかりと自分の世界の中に沈み込む。時々は誰かと笑っている。でも僕の目からは、浅井もどこかでは孤独を抱えているような気がする。
*
2年目の春は静かに季節が変わった感触があった。
バイクに乗っていると風が気持ち良くどこまでも走りたくなる。
密室で音楽と向きあっていると、自然が奏でる音のことを忘れてしまう。バイクに乗ることは、風の歌を聴くことだ。太陽の日差しや影の移ろい、雲の変化、河の流れ、木々の揺らぎが音楽のように聴こえた。自然に歌を歌っていた。
バイクで走り続けていて、ふと古い寺をみかけた。目的を定めずに走っていたから偶然だった。でも駐車場にバイクを停め、階段をのぼった。眼の前には小石で敷き詰められた境内があった。
古くから残っている木造の建築で、巨大な仏像が塔の中に祀られていた。鎮座している像を見つめながら、いったい何千年、仏教というものが続いていくのかと思う。財布から小銭を取り出し賽銭箱へ入れる。上から釣り下がっている綱をゆすって鐘を鳴らし、手をあわせる。何を考えればいいのか、わからない。ただ心を空にして眼光の前にいる。音楽に向きあっている時、心の深い部分がみえる。同じように誰かに触れられた気がする。でもそのまま願い続けた。
山の上にある寺だったから、みわたせば街並みがみえる。道路やビルや住宅街や森や河の流れがみえる。街は夕陽に照らされて美しかった。景色をみながら時の流れについて考える。街が変化する部分、変わらない部分。残り続けるもの。変化するもの。僕の肉体もまだ変化していた。
音楽が人の心の投影である部分があるなら、宗教はどうだろう? 河の流れに人生を思う時、見つめる心と何が違うのか? わからないままだ。でも風に吹かれている答えをそのまま誰かとみつけたい。
閃きは突然だった。脳内で何かが弾けた。心臓が血を送り出し、つま先から脳天までかけまわっていることが感じられた。肌に震えを感じた。今、何か美しい音楽が聴こえる。感触を逃したくなかった。
大学からバイクの駐車場へ走った。誰か知り合いとすれ違ったような気がした。
忘れないように急いで自宅へ帰る。ひょっとすると信号を無視してしまったかもしれない。
部屋に辿り着き、MacBookの起動を待つ。その時間すら長く感じられる。
響いた音をキーボードで弾いてみる。しかしすぐに音を再現できない。コードや音色を変化させながら、おりてきた音を再現しようとする。でも何かが少しだけ違う。
記録のボタンを押して、響いた音を再現する演奏そのものを録音する。ヘッドフォンの中で音が弾け続ける。一瞬の閃きを逃さないように演奏する。
何時間、過ぎたろう。気づいたら、次の日になっている。いつの間にか眠っていて、その間も録音は続いていた。停止のボタンを押し、最初から演奏を聴く。夢中になって弾いたフレーズを編集しはじめる。何かが生まれた感触はある。でも聴く時は冷静に聴こうとする。必要な部分と不要な部分を選り分け、美しいフレーズだけを残していく。結局、3日間ぐらいぶっ続けで音楽に浸る。その後で何十時間も眠ってしまう。
眠っている間にも、架空の音楽を生み出そうと夢の中で演奏を続けている。
あれは夢だったのか、と夢の中で思う。手を伸ばすけれど、その手に届かない。掴めそうなものが掴めない。そういう恐怖で目覚める。
目が覚めて、携帯電話をみると、桜井やレニ、浅井からたくさんの連絡がきている。通知をみて、何をやっているんだと思う。普通に授業に出る決心をしたばかりなのに、みえない何かに突き動かされて、また何日も学校にいけずにいた。でもそれが自分だとわかりはじめている。
太陽から影が生まれるように、自然に誰かの夢を追って遠い地平まで飛び出してしまう人間。聴こえない音楽を聴こうとし、新しく生まれる何かに向かって願い続けている。それが何かわからないまま。
それが僕だ。
みんなに連絡をして、スタジオに集まる。
「何をやっていたのよ」浅井は少し怒っている。
レニは何か知っているみたいに、肩をすくめてみせる。
桜井は、はやくやろうぜと言う。
Macでカウントをとり、演奏をはじめる。
頭の中で閃いた演奏のままではなかったけれど、近づこうと生まれた音。
音が響く。
最初は小さく、アルペジオを弾く。音のヴォリュームをあげていく。エフェクトをかけ、空間を音で満たす。反響し、こだまする。充分に部屋の隅々まで行きわたったところで、静寂を生み出す。残響が残る。
浅井がRiver's flowと囁く。
レニがドラムを叩き始める。バスドラムとスネアにハイハットをまぜる。浅井がflownと歌う。
桜井がベースでゆっくりとフレーズを繰り返す。
そこにまた祈りのようなアルペジオを小さい音から効果的に響かせる。夜が明ける前の白い月の光みたいに。
浅井がもう一度、今度はDeep flowと歌う。
時間は河のように流れている。でも祈り続けている。願いはゆっくりと変化している。でも願いが、音のように世界を変えていく。
ピアノは少しずつシンセサイザーの音に変わっていく。音を変化させる。同じフレーズの反復でも印象は違う。それは時が変わった後の輝きみたいに響く。
空間を音色が満たしていく。音をとめても響きが残り続ける。
響きだけを残す。
レニと桜井は鳥が上昇するタイミングを見計らっている。鳥はずっと音の中にいる。
浅井がFlyingと歌う。
その音を拾って反復させる。歌が響き続ける。そしてキーボードの音と一緒に空間に広げる。
翼を広げる。その瞬間にレニと桜井が弾ける。
飛んだ。
上昇がはじまる。
羽ばたきとなって上昇する。
浅井がAs a birdsと歌う。音程を変化させ、高い音で響くように。Flown,as a birdsと繰り返し歌う。イメージを超えて演奏してくれる。歌ってくれる。ひとりで生み出すイメージには限りがある。彼らが生み出すイメージにさらに交わる。
鳥にとって河は少し身をよせる場所だ。森にも、高層ビルの上にも、雲の中にもいくことができる。まだ若い鳥にとって、未知の世界へ向けて飛ぶことは必然だ。
鳥は飛ぶために生まれた。
音楽は絡み合い、遠い空が近くに感じられる。雲を生み出し、太陽の光を生み出し、風の響きを生み出す。でもレニと桜井は上昇し続ける。桜井のフレーズは音程を変化させながら、高い響きへと変わっていく。レニのハイハットとスネアのリズムに踊る。
浅井が歌う。Higer
高く美しい響き。その声が飛ぶことの快楽を教えてくれる。
レニと桜井が時の流れを、そのリズムを少しずつ速めていく。快楽がおしよせてくる。ただ飛ぶだけで生きていることの意味が生まれている。
演奏が終わった後で、風の中だけに答えがあるわけじゃないと思う。
*
高跳びの選手の跳躍。パンクバンドのジャンプ。キューブリックの映画『2001年宇宙の旅』で猿が骨を投げるシーン。次の場面で宇宙空間へと場面は飛躍する。
人は飛ぶことはできない。でも跳躍はある。
河のほとりで生きてきた人々。今はいたるところに住んでいる。
高層ビルが街を生み出し、集積している。空港が海の向こうにある。
とても高い跳躍。人も飛ぶのだ。時間を一瞬で超越すれば、すさまじい変化が絶え間なく訪れていることがわかる。飛べない誰もが飛ぼうとしている。
頭のなかで聴こえていた曲。
眠りから覚めるとすっきりした気分になっていた。心地よく、自分がまだ何かできるという手応えがあった。深く、長い眠りだった。悪夢も何度かみたかもしれない。でもそういうものを通りこして、目覚めた。
録音をしていた音楽を聴く。跳躍する感覚がある。
苦しいことや辛いことはすべて夜の寝ている間の夢になってしまえ。そして目覚めている時には、美しさだけを響かせるのだ。
時刻はまだ夜明け前で、窓からはほのかな光が差し込んでいる。
その朝の中で編集を続ける。音楽の良さを引き出すために。
幾つものフレーズを編集する。様々な音楽を聴き、どんな音楽が自分の心を震えさせるか感じとろうとする。同じように自分の音楽を客観的にみつめる。ラフスケッチのような音楽。自分たちそのもののような未完成さ。でもそこに可能性がある。
きっと変化していくだろう。その移り変わりを大切にしていこうと思う。そしてレニや桜井や浅井もずっとこの音楽とともに、一緒にいてくれるのかもしれない。
ひとりではない。
そういう感触がある。彼らの魂と僕の魂が混ざっている。
でもその夜は1日じゅう眠れずに、おかしな時間に眠った。夢の中では高校の入学式で偉そうな校長が「お前らはエリートだ」と言い放っていた。偏差値の高い高校に入学したことを誇りに思っている連中は本当にそう思っていたかもしれない。でも僕は自分がエリートだなんて思っていない。故郷の中学では力のある奴や反抗的な奴、真面目な奴や、小さい奴、さまざまな友だちがいた。なかでも不良の櫻井は、不良といってもセンスの良い不良で、いつも風刺的な絵を描いていた。それは世の中の風刺だったり、偉そうな先生のことを風刺するような絵だった。
彼はセンスが良かった。とても魅力的に思えた。何より自由だった。授業中に学校をさぼって女の子と海にでかけたりしていた。
彼のことを羨ましく思っていた。みんなが先生の言うことをきいてテストの点とりゲームに興じている中、自由だった。
でも僕は偏差値の高い高校へ進学した。どこかで櫻井がそんなふうに勉強で点がとれたからって仕方ないと囁いていた。そうだ。確かに仕方ない。でも自分には櫻井のように何かがあるわけではなかった。
僕はどこにでもいる人間だ。だから成績ぐらいでしか自分を証明できない。
夢の中で高校の校長が言う。「でもお前はエリートなんだ。そのまま勉強をして、この高校のために最大限難しい大学に入るんだ。そのために私たちはお前たちにとっておきの教育をする。両親のお金もかかっているんだ。将来、いい暮らしがしたいだろう?」
僕はそこで目覚めた。まだ高校とか受験のこととかを考えている。故郷を遠く離れて、もう大学生になったというのに自分は変わらない。自分が何でもないただの人間であることをいやというほど思い知らされる。どこにでもいる普通の人間で、センスなんてかけらもない。でも常に音楽は聴き続けている。常に新しいフレーズを見つけようとしている。ただ点数をとっても本当の意味では仕方がないことはもうわかっている。テストなんて意味はない。それよりも音楽が教えてくれること、友だちと語りあうこと、そして自分の中にあるかもしれない別の自分を見つけ出すこと。あの櫻井のように、自由に生きる。そう願い続けている。
でもそれは本当の僕だろうか? 僕は本当に音楽を愛しているのだろうか? ただ彼に憧れるまま音楽を聴き続けているだけじゃないだろうか?
真っ暗闇の中でまだ忌々しい過去をひきづっている。何でもない人生からもうとっくにはみ出した人生を歩いているのに。
でも自分たちの音楽を再生すると、そこには美しい歌が聴こえる。浅井の歌だった。歌は歌のままで、言葉になっていなかった。でもそのままでも心は歌によって通じあえる気がしていた。
*
誰もがかつて友だちだった。頭の賢さとか、ルックスとか、お金とかは関係がなかった。目に映るすべてが美しい世界で、それはひょっとすると記憶の中にだけある世界なのかもしれなかった。
不良の櫻井。なぜ彼は僕みたいな普通の人間をつかまえて音楽の話なんてしたのだろう? 彼と僕は別の世界にいる人間のような気もしていた。でも思い出せば少しは違ってみえる。自由だった彼も、きっと苦しんでいたのだ。僕と同じように。
僕たちは生きるということの苦しみの中で、美しく魅力的な音楽に救いを見出していた。社会から耳を閉ざし、大人たちの言うことから逃げて、美しい世界を思い浮かべる。
音楽の中にある世界では、僕たちは本当に友だちで、苦しみをわかちあっている。
それぞれの家庭に事情があった。子どもを殴る親。子どもを愛していない親。優秀な子どもだけを愛する親。上からみれば、可愛い子どもと憎い子どもがいるのかもしれない。神様はすべての人間に愛を注いでくれるというけれど、本当だろうか? だから僕たちは耳をふさぎ、僕たちが逃げ込むことができる美しい音楽の世界を残しておいてくれたのだろうか?
アーティストたちはみんなどこかでははみ出した人間だった。人とは違う感じ方が彼らをそうさせる。他の人にはみえないものをみて、みえない音を感じとり、だからこそ、その美しい世界を伝えようとする。
あるいはそうではないのかもしれない。この世界の苦しみの前で、ただ歌うことしかできなかったのかもしれない。
夢の中で、浅井が言う。「逃げるのよ。どこか遠い世界へ。この世ではないところへ。音楽を聴いて美しい世界があると感じられるなら、その世界はきっとどこかには存在する。目の前の現実が苦しくても、いつかその苦しみを逃れることができる。そう感じられるようになるまで」
心の中にある苦しみを汚い言葉にはしたくない。ピアノはどんなあらっぽい演奏も美しい音楽にしてくれる。いつか僕の醜い心が美しくなるまで。それは福音だった。自分が音にまみれて変わっていく。音を通じて人と繋がる。同じ音楽を演奏する。仲間として。
音楽の中には、かつて友と過ごしていた世界があって、美しいままだった。
言葉だけでは語れないことも、音楽を通じて語ることができる。
不良の櫻井は言っていた。一緒に、音楽をしないかと。
僕と彼との間には、たとえどんな違いがあったとしても一緒に音楽をすることができた。テストで良い成績をとる競争をして、人より上にたちたいと思うよりは、同じ仲間だと思えた。そのことのほうが、大切なことだと僕はどこかで思っていた。がんじがらめでいるよりも、自由でいること。櫻井が僕に教えてくれたことだ。
不良の櫻井がある日、僕に告白したことを覚えている。「父親に殴られているんだ。俺は。警察官の親父で、いつも怒っている。俺のことが気にくわないと殴る。だから俺は保育園の時に、お前を殴ってしまった。殴られていたから、誰かを殴らずにはいられなかった」
そうだったのか。僕は真実を知る。保育園の時のことなんか覚えていない。でも櫻井のことを僕は確かもっと昔は好きじゃなかったと思う。
中学生になって、不良の櫻井は声をかけてきた。そしてアメリカで流行している音楽のことを教えてくれた。僕は櫻井が教えてくれる音楽に夢中になった。大人たちが聴いている音楽よりも、テレビの中で流れる音楽よりもそれは格好良かった。世界に対して、俺はここにいると音楽からメッセージが聴こえた。そしてお前もここにいていいんだと。
僕たちだけの秘密の世界があった。僕たちは争っていたことを忘れて、大人たちから逃れて、僕たちだけの秘密の世界を夢みた。櫻井は魅力的な言葉で、新しいビジョンをみせてくれた。教師が語る世界とは違う世界だった。
でも中学2年生になった時、僕と櫻井は別々のクラスになった。悪い影響を与える人間から切り離してクラスを編成する。教師たちが考える理想の学級のために。僕たちは引き裂かれ、僕はひとりぼっちになった。
音楽のことを語る友だちがいなくなった。ひとりでインターネットを検索し、イヤフォンをして音楽を聴くようになった。インターネットの向こう側には櫻井が教えてくれた魅力的な音楽があって、夢中になった。人々の叫び声が聞こえていた。僕も叫んでいた。
僕たちは引き裂かれ、競争させられ、従わされる。でも歌を歌うことができる。そうして音楽は生まれてきた。僕たちをもう一度、結びつけるために。僕たちはかつて友だちだった。心をシェアし、魂を共有する同志だった。結びついて生まれてきた兄弟だった。でも引き裂かれている。
僕は目覚めた。不良の櫻井が教えてくれたこと。この世界には殴られ、虐げられて苦しんでいる人たちがいる。そういう人たちが救いを求めて歌っている。歌っている時、踊っている時。そういう時だけ、世界がましになる。そういう人間がいる。僕だってそうだ。
世界から傷つけられているのだ。その苦しみが少しでもましになるまで音楽を聴き続ける。美しい音の中で、自分を取り戻そうとしている。夜、眠る時みたいに、目覚めれば世界が変わっているように願っている。
自分でいていいのだ。きっと誰もが自分でいていい。でも学校で、社会で、自分のままでいられない。だから音楽を生み出し、自分が自分であることを証明しなければならない。
僕は武器を手にとって戦っているわけではない。きっと美しい音楽を聴いた人間が、もっと素晴らしい世界を夢みるために戦っているのだ。
不良の櫻井が教えてくれたこと。俺もお前も生きていていいんだという肯定。殴り、殴られたものたちの和解。それは小さな一歩だった。でも引き裂かれてしまった。
浅井ならわかってくれるだろうか? 僕の子ども時代の話。そして歌を歌ってくれるだろうか? 僕たちの運命のために。
でも僕が思い出したことは、浅井にすらどう伝えればいいのかわからなかった。誰にどう伝えればいいのかわからなかった。だから僕はもう一度、ピアノの前に向かった。
*
「もう、自由になっていいの」
そうユキが言った。僕がずっと待っていた言葉だった。
ユキはずっと僕の話を聴き続けてくれた。辛抱強く、忍耐強く。その話がまるで素晴らしい楽園の話であるかのように。僕はこれまで自由に話すことができていなかったし、ユキの前でとても緊張していた。でもキスをして、そして何日も抱きあって一緒に過ごすと、まるで浅井に話すみたいに話をすることができた。僕はその間、ユキのことだけを考えた。そして相手が浅井ではないことに慣れていった。
僕とユキは初めてのデートでキスをして、親しくなり身体をかさねあわせた。そしてより深く話すようになった。なかなかうまく話をすることができなかったけれど、身体を重ね合わせるたびに自分のことを思ってもみなかったような言葉で話せた。不思議な体験だった。ふたりの間にあった壁は消えて子どものようにお互いのことを話せた。
「もう自由になってもいいの。ここは学校ではないでしょ? 人生は何もせずに生きることができるほどシンプルなものではない。多くの迷いや間違いの上に人生はあって、わたしたちは時に細い線のようなわずかな糸に頼らなければならない。かつて級友だったクラスメートたちのいったい何人と心を通じあってきたでしょう。だんだんお互いがお互いのことを忘れていく。かつてあれだけ親しい人々であったにも関わらず。でも人生はすれ違いだけでできているわけじゃない。出会った時に、その出会っただけのことができないと後悔してしまうじゃない。わたしはそう考える。だからあなたとこうしている。あなたの音楽とても素敵だった。演奏している姿に美しいものがみえた。そしてこの人はユリのことが好きなんだろうなと思った。でもそういうことは関係なかった。小さなライブハウスで演奏しているあなたに惹かれたのはわたしの方だったから。わたしは人生の一瞬、一瞬を大切にしている。好きな人が本当は友だちのことが好きだったとしても、自分の方へ運命をたぐりよせる。そしてできるだけのことをする。わたしにとってはいつも今が大切なの」
ユキの言っていることはよくわかった。ユキが僕のことを理解していくように、僕もユキのことを理解していくからだ。
僕たちは罪なく何度も抱きあい続けた。僕にとってユキが初めての異性だった。そして女性の美しさを本当に知った。
でもそのことを浅井になんて話せばいいかわからなかった。浅井どころか、桜井やレニにだってどう話せばいいのかわからない。ユキを抱くたびに世界が変わってみえた。
時々、ユキとベッドで寝ている時にMacintoshのピアノの音楽を思い浮かべた。憧れて、求め続けた結晶。夢のような世界が音楽の中にあって、幻のようだった。時の流れを変えるように飛ぶ鳥たちの歌。その未完成の歌がいつか懐かしい思い出になる。そういうことが僕には理解できた。
僕の音楽はユキに届いた。
そして僕たちは抱きあった。
*
大きな時の流れがまるでみえるような時もあれば、今、目の前で起きていることさえ、いったいどんな意味があるのかわからなくなってしまう。
「最後の演奏をはじめよう」
僕はそう言った。僕たちはいつかそれぞれの道を歩きはじめる。僕は僕の道を。そして桜井は桜井の道を。レニだってそうだ。そして浅井はもっと多くの人たちに届くシンガーになるかもしれない。僕たちは一羽の鳥として一緒に飛んできた。音楽を通じて魂のやりとりをしてきた。でもそれは特別な時間であったことがわかりかけている。
いつか僕たちは自分自身になっていく。浅井もひとりの女性になっていく。
僕はそういうことがわかった。でももう僕が愛するのはユキなんだ。
Bird1として演奏することで闇夜を抜け出せた。死ぬことを考えなくなった。生きることを考えるようになった。
多くの人々に心を開くことができた。今も心を開いている。だからこそいつまでも浅井とともにはいられない。
浅井は何も言わなかった。桜井もだ。レニは「仕方ないね」と言った。
レニがみんなの代わりに言う。「何があったのかはわからないけれど、君はもうひとりで飛ぶことを決めたみたいだね」
僕はうんと言った。
僕が浅井とともに演奏するのはあと一度だけだ。
そう心に決めた。
ライブで演奏する曲は5曲。どの曲も自分たちで磨き上げてきた音楽だ。そして浅井はその1曲、1曲に歌詞を書いてくれた。僕たちは恋人ではなかったけれど音楽を通じて友だちになれた。そして作品を作った。その音楽は僕たちが友だちだった証だ。
僕は天から降りてきた音楽をそのまま演奏した。桜井がその演奏を支えるベースラインを弾いた。僕は桜井に答えるようにフレーズを変化させた。レニが静かにリズムを刻んだ。
素晴らしい友人たちだ。僕は彼らと出会えて本当に良かった。
僕たちは再び一羽の鳥となり、ひとつの魂となって演奏する。
そして浅井が歌いはじめる。
*
鳥にとって、飛ぶことは生きることだ。そしてあの頃、音楽が隔てられた僕たちを結びつけていた。
やがて会うことのなくなった人々。でもあの時、音楽は僕たちを結びつけていた。その感触が心に残る。
僕は今もMacintoshにヘッドフォンをして、ピアノの音を響かせる。レニがドラムを叩いているような気がする。桜井がベースを弾いてくれている。そして浅井が歌を歌ってくれる。特別な歌だ。あの頃、求め続けた美しい歌。生み出した音楽が心の中にはずっとあって、そのメロディが今も響き続けている。
あとがき
この作品は2012年ごろから構想され何度かWeb公開されながら2021年に現在の形になりました。そして2022年に加筆修正されました。音楽は人生の支えであり友人との繋がりでもあり、道標でした。好きなアーティストはたくさんいますし、本を書く時はいつも音楽を聴きながらです。
音楽は人の心を救います。この本の主人公のように音楽を聴き、また自分で生み出すことで心は晴れていくことがあると思います。
僕自身、音楽を演奏し人々に認められることで救われた経験があります。人生で幸せになることのできる鍵は愛されることだと考えますが、この苦しい世界で愛されるまでには長い道のりが必要な場合があります。
その時には音楽が自分の心を顕す鏡となります。そして最初は暗い音楽を聴いていたとしてもいつか心が晴れて表現する音楽も変わっていくこともあるかもしれません。
この本の主人公のように大学時代に音楽を演奏していました。その仲間のひとりの女の子が亡くなり、僕自身も音楽を演奏することは次第に減っていきました。そして音楽を演奏するのではなく、音楽を聴きながら言葉で想像力を広げるようになりました。僕の小説は音楽をBGMとした詩でもあるのかもしれません。
亡くなった女の子と話した内容が、この本では浅井さんの言葉として語られます。
この小説はその女の子と、かつて友だちだったすべての人々に捧げられています。