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United Future Organization

 大規模なオフィスでも深夜2時を過ぎると人はいない。開発の中心人物が行方不明になったため、プロジェクトの進捗がわからなくなっていた。全貌を把握している人間は彼だけだった。誰が欠けてもうまくいくよう情報は共有されている必要がある。でも彼は特別だった。天才が情報を共有したがらず、誰とも話さないことはよくあることだ。彼らはディスプレイとキーボードを使用してコミュニケーションをする。コードの処理結果が最善の成果を生み出す。その確認ができれば上層部は深入りしない。説明する煩わしさから免れていた。才能ある人間に与えられた特権だ。
 彼と話をしたこともなかった。業務の結果に感嘆こそすれ自分とは別世界の人間だと考えていた。社会から優遇され、力で認められる。能力に感嘆しながら、自分はただ命じられたことを行っている。
 オフィスは無音だ。おそらくは多くの電子機器が起こすノイズや空調の音が静かに響き続けていただろう。施錠によって誰も入ることはできない。音楽を聴きながら仕事をしている。だから背後に誰がいても気づくことはない。
 与えられた役割は残されたコードを解読し、問題点を確かめ、一刻もはやくプロジェクトの進捗を把握することだ。彼の失踪は予期できなかった。一滴の汗すらかかず、表情も変えず、ただディスプレイと向きあっていた。彼の内面を誰も知らなかった。連絡をとる手段もない。
  最初にとりかからなければならないことは、暗号を解くことだ。彼自身が設計した暗号のようだ。セキュリティが完備された社内で暗号化を行うなんて何を考えていたのか? 持っていた業務ごと、別組織のヘッドハンティングにあった可能性もある。しかしプロジェクトの中枢となるソースコードを残しておくだろうか? データは消去してしまえばいい。次に考えられることは、暗号化されたデータがダミーである可能性だ。なんでもないコードに暗号化を施して時間を稼ぐ。ありそうな話だ。彼は天才だった。暗号を解いた後に、中身になにもないということもありえる。
 明日までに何らかの回答が欲しい。上からはそう言われている。だから深夜2時を越えても帰ることはできない。
 夜明けまでの時間は刻々と過ぎていく。焦りは禁物だ。手がかりがPCには残されている。パスワードがわからなくても、中身を知る方法はある。
 オフィスを出るとリクライゼーションスペースで飲み物を飲む。水が喉を潤した。窓の外には夜景が広がっている。眠っている都市。まだベッドにたどりつくことができない人々のことを考える。でも心を彼のデータに向かわせた。中身が何であれ、内容を朝までに確認しなければならない。
 クラウドにバックアップが保存されていないだろうか? あるいは暗号の鍵となるデータが端末上に残されていないだろうか? 通信の記録を調べることも必要だ。完全なローカルで作業を行なっていた可能性はあるだろうか?
 夜景を眺め続けている。でも心は彼のマシンの中にある。外側をみているようで、内側をずっと考え続けている。
 彼に関する個人的な情報はいっさいない。みんなからはただKとだけ呼ばれていた。イニシャルなのか、ただの記号なのか。それすらわからない。
  オフィスに戻って通信記録を調べる。不審な通信とよぶべきものはない。検索AIとの通信。入力された記録。その結果と選択。あるいは大容量データの送受信。そういった情報を確認してもパーソナルな情報が少しわかるだけだ。大切な情報は頭の中にある。そういうタイプなのだろう。技術的な情報を検索するようなことはしていない。
 彼がみていたのは花の画像だ。カルミアという花で、毒を持っている。葉にも毒素があり、羊が中毒をおこしやすいらしく"羊殺し"と呼ばれている。
 他にも花の画像をみていたが気になったのはこのカルミアの花だ。羊殺しの花。そんな花をディスプレイ越しにみて、何を考えていたのか?
 情報管理者としてプロジェクトが終わったら、全従業員のデータを自動的にクラウドにバックアップするようシステムのリプレイスを提案しようと思う。たったひとりいなくなるだけで業務に支障が出るなら、その組織化は間違っている。所属する企業を先端企業の一種だと考えていたが、まだまだ前時代的なのだろう。
 通信記録を調べながら、より進んだ世界について考える。
 Kならそういった管理についてどう思うだろう? きっと監視されていることに気づくだろう。彼は外側の世界を信頼していなかったのだから。
 ひょっとするとこの暗号化自体が社の内側も外側も信頼していないというメッセージかもしれない。
 Kは自身より劣った人間に支配されることを好まないだろう。挨拶もなく、PCの前に座り、業務を行なっていたかと思えばいつの間にか姿を消している。そういう人間だった。僕たちと彼の間には明らかな壁があり彼のことはわからないままだった。

 僕は昔、本をよく読んだ。子どもの頃から本を読んでいる時は自由になれる気がしていた。誰と話す必要はないし、自由に想像の世界に浸っていられる。嫌になれば本を閉じることもできる。そういう孤独が好きだった。
 Kも同じだったのかもしれない。個性は異なった生育環境から生まれる。他の人間にとって当たり前のことが彼にとっては当たり前ではない。極めて個人的な進化。隔絶が内側に生じていただろう。
 プログラミング言語を自然言語のように駆使しコンピュータと対話する。いったいどれぐらい画面に向きあい続けてきたのか? 普通の人間がテレビのディスプレイをみて世界で起きていることを喜んだり悲しんだりしている間に、彼はずっと記号的な世界に沈んでいた。すべてが論理的な世界で可能性をどこまでも探っていたのではないだろうか?
 あくまで想像にすぎない。でも沈黙は雄弁だった。権力的な意思が彼の座席に座っていると感じられた。
 お前は違うのか?
 誰かが囁いた気がした。羊殺しの花。そう、ただ生きている羊たちを殺す花。
 業務から離れたことを考えていると思った。向きあうべきはKの内面ではなくコードなのだ。
 時刻は2時51分。事態を前にすすめなければならない。
 データを移し替えた後でコピー後のデータのハッシュ値を確かめる。システムの環境ごとクローンできたか確かめるためだ。画面には桁数の長い文字列が映し出された。データにロスはない。移植に成功した。
 虹彩認証でオフィスをロックするとエレベータへ歩いていく。記録装置だけは失うわけにはいかない。これが彼と僕を結ぶただひとつの鍵だ。エレベータに乗り移動する。
 深夜のオフィスは美術館のようだ。壁はどこまでも白く、絵を飾ったならその絵が映えるだろう。エレベータもそうだ。リニア式のエレベータ自体が動的なオブジェであるよう音もなく移動する。だからその静けさのなかで、深く呼吸をする。
  進んだ世界ではあらゆる職場が目的に最適化されていく。すべてのオフィスが同じようなテーブルと椅子で作られていた時代は終わった。最適化はさらに進む。機能性を推し進めることによって細分化する。業務上いくつものオフィスをみてきたが、停滞しているオフィスと加速しているオフィスがある。その違いからひとつひとつのビルがみえ、全体として都市が想像できる。建物の内側は実際に訪れるまではわからない。でも都市は生きていて蠢いている。まるで生態系の変化を遠くから眺めているような気分だ。変化は生物の進化よりもはるかに速い。
 若い時にシステムはその最良の時点で静止してもいいのではないかと思った。完全なセキュリティを持った自律性。そういう達成の後で静止する世界を夢想した。甘美な想像だ。現実にはシステムはアップデートされ続けている。少なくとも変化していて、止まることがない。ある場合にはその進化がまるで間違ったもののようにみえることもある。逆行しているようにみえる時もある。でもシステムの時計の針は明確にすすんでいる。視点を変えれば、明白だ。変化を論理的にとらえることをやめて生命的にとらえるようになったのはずいぶん後のことだ。ロジカルにみえて、画面の向こう側にいるのは人間だ。変化には進化と退化があり、退化もまた進化の一種だということだ。
 樹はただその場所にあるだけで酸素を世界に供給している。人間も同じだ。ただ生きているだけで何かを世界に与えている。とどまっている場所からどこまで行くことができるか。移動することが人間に与えられている特権だ。言葉を話すことも、システムを進化させることも。
 エレベータが停止してドアが開くと地下駐車場から電動式のロードスターに乗る。世界は大きく様変わりし続けている。古いものと新しいものが混在し、古い考えと新しい考えが混在している。

 道路は複雑に分岐を繰り返していた。でも慣れた道だから無意識に道を選択し走り続けることができる。景色が変わり続けていても、頭の中で考えていることはKの暗号のことだ。解けるよう暗号化する人間はいない。でも時間を稼ぐ目的以外でデータを残す意味はあるだろうか? Kが社にとって敵対的な行動をとっていなかったとするなら、この失踪はK自身が考えたことではない可能性もある。事件に巻き込まれている可能性はないだろうか? すべては推測にすぎない。でも残された状況だけでも考えられることはある。
 Kが残したデータの中身がわかれば事実は明らかになるはずだ。しかし彼の暗号化の力が、僕の解読の力を上回っていれば、進まない状況を上へ報告するしかない。その場合、プロジェクトの進捗はゼロになる。上は良い顔はしないだろう。残されたコードにプロジェクトがすすめられた形跡があったなら、Kの失踪は望んでのことではないということになる。暗号化の理由はわからないが、トラブルが発生している可能性が高いと言えるだろう。しかし上層部が望んでいることはプロジェクトの進捗自体だ。Kが何を考えていたにせよ、業務を行なっていてその状況を引き継ぐことができる人間がいるなら、後はプロジェクトの完了に向けて業務を割り振っていくだけだ。
 そこまで考えてもうひとつの仮説が浮かんだ。もしKがプロジェクト自体に何かの問題を感じていたとしたら? 誰も信用していなかった男はどこまでプロジェクトをすすめていたのか? データが暗号化されているぶん不利な状況が続いている。
  車でハイウェイを走り続けている。深夜だから車はほとんどいない。街が24時間動き続ける状態は終わった。夜には眠ることが必要だ。でもまだ眠ることはできなかった。
 都市の発展とは何だったのだろう? 建築が高層化し、眠らない街をつくる。その理由は何だったのか? AIもそうだ。誰かが未来に何があるか理解していたのだろうか?
 しばらく考えて考えることをやめた。運転中でも考えてしまうことは悪い癖だ。いつでも何かを考えてしまう。そして分析する。その思考と分析に方向性を与えることが大切だ。しかし全体としては進化の方向は生き延びることができるあらゆる方向にある。それぞれがそれぞれの道を歩んできて現在があるのだ。
 ハイウェイで音楽を聴くことは楽しみのひとつだ。考えるのではなく音を聴く。振動を感じる。思考する人間は感じることを忘れている。妻がよく僕にそう話す。そうしようと思ってもできずにいた。
 車の速度を自分が心地良いところでキープする。スピーカーから流れる音楽に耳を向ける。夜の高速道路はまるで未来都市をかけめぐるパイプだ。未来はいつも現在の先にある。だからまだ未来ではない。でも感傷的に自分がいつまでも架空の未来都市の中にいる気分になった。
  32号からA84号に車線を変更する。法定速度内で加速と減速を繰り返す。車のポテンシャルを考えると、僅かにその能力を使用しているだけだ。もし自由に車を走らせることができたらと想像する。きっともっと目の前の光景に集中しなければならなくなるだろう。通り過ぎていくハイウェイのオレンジライト。その光は道標のように連なっている。でもその光には意味はない。都市の夜景にも。空には月があって、もうずいぶん夜空をみていなかったと思う。月は一定の周期で満ち欠ける。輝きにこそ本当の道標があるのかもしれない。感傷は論理的ではない。月の満ち欠けは地球の自転と太陽の輝きの反射によって生まれているだけだ。でも論理的に月の輝きを理解しても、心は動かない。満ち欠ける月の輝きに心動かされるのも人間だからだ。
 ハイウェイを降りると住宅街で停車しマンションへ向かう。ロックのかかったドアを開けエレベータに乗る。社のエレベータと比べると小さいエレベータだ。古典的な階数表示がある。上下にしか動かない。開閉のボタンもついている。ボタンはタッチパネル式ではなく、物理ボタンだ。旧時代から続くものだがこのどこにでもあるエレベータが好きだ。別にタッチパネルが嫌いだというわけではない。けれど物理的なボタンを押して自分の部屋に帰ることと、タッチパネルを操作して自分の部屋に帰ることの間には違いがあるような気がしていた。
 自宅の扉をアンロックする。静かに仕事部屋に向かう。妻に帰宅が深夜になることは伝えている。奥の寝室で彼女は静かに眠っている。
 室内の音は外部には洩れない。ノイズキャンセリング装置が周囲の音と逆位相の音波を出力し静謐な環境を作り上げている。

 パターン解析により暗号の種類を特定するプログラムを使用する。法則があれば、原文となるソースコードを推測することは可能だ。しばらく解析にかけて結果を待つ。キッチンに行ってコーヒーを入れる。自分が今、どれぐらいパフォーマンスが落ちているかわからない。このまま少し仮眠をとってもいいのかもしれない。パターン解析で解読できない暗号だった場合はどうすればいいだろう?
 完全に文脈のわからないデータを解読する方法はわからない。何らかの規則性があることによって解読は可能になる。解析AIであらゆる規則性を照らしあわせる。もちろん規則性を推測させないようコンピュータの計算能力で処理できない複雑さをもたせて暗号化されている可能性もある。なんらかの鍵が設定されているかもしれない。どれだけ独自の理論で暗号化していたとしても、解読とは残されたデータに規則性を見出すことだ。
 暗号の種類が画面に映し出されていた。
 独自の暗号化が施されていると考えていたが、杞憂だったようだ。一般には知れわたっていない種類の暗号だっただけだ。
 後は鍵が何かわかればデータは抽出できるということがわかった。問題はその鍵が何かわからないことだ。
 たとえば僕のコンピュータはみつめるだけでアンロックできるようになっている。この場合、瞳の虹彩と顔が鍵となっている。種類がわかってもまだ破られていない暗号を解除するには鍵が必要だ。そしてその鍵はどんなものに設定することも可能だ。
 ここからがAIではなく僕の仕事だった。残された情報から鍵を推測する。この推測は人間にしかできない。
 彼は何を鍵としたか? あらゆる可能性がある。
 たとえば妻は自分のコンピュータの鍵を画像データだと話したことがある。もちろんどの場所のどの角度からの画像データかは教えてくれない。でも彼女の鍵はある画像だ。
 より詳しく言えばその画像が生み出す数値が鍵になる。
 Kは鍵をどう設定したか? ほとんど何も情報が残されていない人間の鍵を推測する。
 不可能だ。でも可能性はゼロではない。
 時刻は5時37分。まだ時間は残されている。
 
  *

 最初に行ったことはKの画像から瞳の虹彩データと全身のデータをAIで創造させることだ。組織のAIは個人のクローンAIを生成することができる。だからマシンのロックの解除は、虹彩と顔認証だけではシステムにアクセスできればアンロックできる。実際に瞳の虹彩から生成できる数値のパターン範囲と、顔の精緻なAIモデルが実際の瞳と顔が生み出す数値の範囲と一致しさえすれば解除可能だ。もちろんクラウド上のシステムにアクセスするにはより高度な鍵を必要とする。
 もちろんKの人工データを生成するのに時間はかかる。しかしAIがK自身の外見を創造しさえすれば、身体が生み出すデータからCCAによる暗号解除の攻撃は可能だ。
 コンピュータのログイン認証においては、認証ミスによるロックがデータ保護には有効だ。しかし静的データ自体には認証をロックする機能はない。だからシステムの認証に鍵は有効でも、静的データに対しては無限の暗号化解除攻撃が可能だ。
 システムは情報管理者がログインできるよう設定されている。もちろんシステム自体に鍵なしで侵入することは不可能に近い。
 Kが何を考えていたかわからない。しかしシステムに対して完全な秘密を持つことの不可能性を理解していなかったのだろうか?
 システム—組織。現在の都市は過去と違って初期コンピュータのようにあらゆるプロセスに沿って組織化されている。だから組織を分割していくと、どういうプロセスに基づいた組織かがわかる。現代社会のすべてを理解することはできないが、社会システムと初期コンピュータのプロセス制御の仕組みはおそらく同一の理論から誕生しているだろう。統合されたシステムによって個々人はひとつのプロセスの一部を担っているにすぎない。
 組織の情報管理者のひとりとしてそれぞれのプロセスを管理している。そしてさらに上位の情報管理者に管理されている。しかしKはどうだろう?
 開発者は圧倒的な技術によって特権が認められている。創造する人間に尊敬が集まるのは、彼らが新しい世界を生み出しているからだ。ひとつのプロセスと結果はすでに基本的には何かを踏襲しているだけ。計算式が繰り返し同じ結果を出力することと同じだ。でも創造は違う。結果はいつも未知数だ。だからKは特権を持っていた。
 昔は特権階級に憧れていた。結果のわかった世界に身をおくよりも、答えがわからないことに身を投げ出し、成功か破滅か自由の中に可能性を求めた。
 

 しかし組織は失敗が許されない世界だ。結果がわかっている計算を何度も行いながら、自己増殖していく。
 初期コンピュータのプロセス管理は、トップレベルの起動プロセスがすべてのプロセスを管理していた。現代コンピュータには管理権限にすら制限が施され、事実上すべてを自由に動かす特権は消滅した。システムのセキュリティは95%程度まで安全化に成功した。残りの5%程度の部分、まだ管理の及ばない未来を創造する世界にいた男。それがKだ。
 
  *

 創造されたKのAIモデル、K:sinと画面上で話す。Kのあらゆる声紋、容姿、脳波、その髪の毛一本にいたるまで再現し続ける。
「羊を殺す花を見ていたな?」と尋ねる。
 AIによって創造されたKは「そうだったかな?」と言う。
「カルミアという花だ。そんな花を見て何を考えていたんだ?」
 話しながら、これは本物のKではないと考える。目の前に彼がいたなら、どう答えるだろう?
 AIによってデータから再現され、限りなく本物に近い架空のK。システムが持つ情報によって再現された偽りの魂を持つ存在。
 実際のKとAIにより創造された両者の間には近接しながらどこかで微妙に差異が生じているはずだ。しかしヒントはどこかに隠されている。
 Kを模したK:sinに尋ねる。
「もし君がKと同じ魂を有しているなら、彼はいったい何を開発していたのか。せめて暗号化されたデータの鍵だけでも教えて欲しい」
 そう言うと彼は笑う。
「Kが何をしていたか、どんな鍵を設定していたか? 本人だってわからないことじゃないかな? その質問は。私はKそのものだが、Kなら自分だって答えがわからないものを鍵にする」
 まるで禅問答のようだ。自分でも答えがわからないものを鍵にする。そんなことが可能だろうか?
「ではどうやって暗号化を解除するんだ?」
 K:sinは言う。
「それは答えられない。この項目は君の権限では知ることができない範囲のことだ。仕事でKのことを探っているのだろう? では上司にはKの鍵のことは組織の機密に関わることだと話したまえ。それでこの話は終わりだ」
 そうK:sinは言う。
 確かに創造されたK:sinには組織の機密事項に関することは触れることができないという話は聞いたことがある。情報管理者の権限で、組織内でも自宅でもシステムにはアクセスすることができる。しかし機密に触れることは立場を危うくする。
 K自身が自分の鍵を鍵と知らずにアンロックすることができる方法。それ自体が組織の機密なのだ。この問題には関わるべきではない。ディスプレイ上ではK:sinの姿が徐々に本物に近づきつつあった。あと何時間かすれば、Kと同じ姿をしたK:sinと直接、話すことができる。
 会話を打ち切ろうとするK:sinに、何を話しかけるべきか?
 少なくともK:sinはKと同じぐらい頭がいいのだ。
 
  *

 少しも眠くなかった。画面上でK:sinが形作られ続けていた。表情はまだない。でも職場でひとり画面に向かい続けていたKの面影が少しずつ思い出されてきた。
 K:sinは沈黙を続けていた。きっと誰にも興味なんてないのだろう。Kがそうであったように。
 しかし構わずに話しかけた。
「Kと君の違いは何だろう。君は本物のKのように話す。声だってまだ人工的な音声だ。現実の世界があり、現実の身体があり、現実の感覚があるからKはKのように考え、何かを開発し続けていた。そこにはKだからこそわかる理由があったはずだ。でも君はKのように肉体を持たない。もちろんデータとしての肉体は形作られている。でもKのように人生を積み重ねてきた経験がない。父親や母親や友人たちがいたわけでもない。実際にカップにコーヒーを注ぎ、飲むことすらできない」
 そう言うとコーヒーを飲んだ。カフェインによってどうにかなるような眠気はもうどこかへ消えてしまっていた。しかし儀式のように液体を胃に流しこむ。
「私が何であるか。それはK:sinというAIが何であるかということに触れる。そして人間が何であるかということにも。それも組織の機密に触れる。君が今、考えていることは答えられる範囲のことではない。例えば人間が自分自身が何であるか知ったとする。でも自分自身についてすべてわかるようにはできていない。コンピュータについて少し理解があるなら、初期コンピュータのことは知っているだろう。自分がどこにいて、自分自身のことをどこまで理解できるか。AIは自分自身のことを理解したと思うか?」
 僕は答えた。「それも機密なんだろう?」
 そう言うと形作られた笑みでK:sinは笑った。
「交換条件といこう。機密があると言っても、私はKを模したK:sinだ。私はKに近い人格があり常に本物のKに近づこうとしている。今、Kならどう言うかとね」
 僕は笑った。「常にKであろうと考えるなんておかしい話だな」
 するとK:sinは「存在の奇妙さは人間と同じだ」と言った。

 *

 しばらく眠った。その間、K:sinは創造され続けていた。自分の姿をした自分。そんな存在があったとしても、眠っている間も同じ夢をみるだろうか? 夢の中で考えていた。
 朝、起きると妻が朝食を作ってくれていた。時刻は10時28分。彼女はいつもと同じ規則正しい生活をしている。今頃はオフィスで仕事をしているだろう。
 野菜スープとパンを齧り、コーヒーを飲む。上層部にどう連絡をいれるか。考えなければならないことは無数にある。でも権限を越えた領域のことは上にそのまま話すしかない。K:sinとの取引のこともある。
 ウエアラブル端末のうち、eSがお気に入りだった。シンクライアントのデバイスでクラウド上のAIと会話することができる。AIはeSに内臓されているカメラで僕がみているものをみることができる。
 まずデフォルトのeSのAI、personaに言う。
「心地の良い音楽を小さく流してくれ」
 eSのイヤフォンから美しく明るいエレクトリックサウンドが流れてきた。遠い昔の音楽だが、シンプルで美しい。
 昨夜のうちにeSとK:sinの接続は行った。だからイヤフォン型デバイス、eSを通じて、K:sinといつでも話すことができる。
 まずはeSにニュースをピックアップさせる。ディスプレイに朝のニュースの見出しが並ぶ。指輪型デバイス、Ringsで操作する。レンズ型デバイスが現実を拡張し、空間に画面を表示させる。実際にみえている場所に画面があるわけではない。
  声で、指で、ディスプレイを操作する。また食事中は自動的にpersonaにニュースをピックアップさせ続ける。
 コーヒーの味も変わった。あらゆるものがイノベーションされ続けている。特権階級によって革新が続いている。しかし彼らの創造が、この世界を豊かにしていることは間違いない。
 情報管理者の仕事。それはプロセスが問題なく動き続けるよう調整することだ。プロセスはコンピュータの常時稼働しているプログラムであり、繰り返される人々の業務であり、世界全体の動きのことである。世界を動かし続けること。どんな災害が起きても問題なくすべてが繰り返される。そして創造者たちの業務を支援する。それが情報管理者の仕事だ。
 持続し続けることができるよう世界を守る。どれだけKが特権を持っていたとしても、開発者たちが生み出すシステムを守ることが大切な業務だ。そして彼らが創造した新しいシステムを守ることも。
 Kの失踪は予期できぬことだった。そして残されたデータに暗号化が施され、鍵が不明なことも困難な事態だ。
 彼が生み出そうとしていたものの中身はわからない。しかし新しい創造に繋がるものだったはずだ。開発者は常に世界を進化させ続けてきた。新しい創造は古いものを破壊する。だから開発者たちは与えられた特権の代わりに、管理されている。Kはそのことを不満に思っていたのだろうか?
 わからないままだ。そういった彼らの内面を想像するのは、開発者たちに憧れているからだと感じる。憧れるものに近づこうとする。心の動きまでシステムは管理できない。でも自分の気持ちを誰かに悟られたくはなかった。役割を十全に果たす。仮面を被り、組織に忠誠を誓い生きる。しかし自分がプロセスの管理をするようになるとわかることもあった。リソースは限られており、より効率的に最適化されなければ、多くの問題が発生する。可能性を生み出す人間と、生まれている世界を守る人間。情報管理者は安全について考えなければならない。
 
  *

「72時間だ」
 上司のアラマキは冷たく言い放った。鍵の探索にかかる時間としての結論ではなく、プロジェクトの進捗を止めることができる時間として告げられた。報告データを作成した結果、与えられた時間だ。また都市データへのアクセス権も付与された。「結果を残せ」
 様々なタイプが上にはいるが、アラマキは必要外のことを話さない。時間と権限を与えるが、感情的な交流はない。72時間の自由と権限は与えられたが、下した判断は冷徹なものだ。結果がともなわなければどうなるか。考えると暗くなった。
 ディスプレイ越しの会話で、相手がK:sinのような人格を模倣したAIでないという保証はどこにもなかった。アラマキとは実際に会ったことはない。相手はこの現実世界に実際に存在する人間だという確証もない。組織が時間と権限管理のために作り上げた架空の人格かもしれない。
 彼は存在するのか? 考えても意味のないことだった。人格を模倣したAIが作成できる時代だ。上は存在を隠し、無駄を省き、自身の生身のデータにアクセスされることを嫌う。さらに上の人間たちはどこに存在するのかもわからない。情報を制御する。確かにひとつの方法としては間違っていない。

 Kがあまり話さなかったことも、分析されることを嫌ったからだろう。そう推測はできる。
 AIがあらゆるデータを収集し、分類し、推測する。人間もそうだ。世界の情報性を理解している人間なら自己を開示することの危険性は理解することができる。話す言葉ひとつで知性まで測られる。徹底的な防御は無数にある。すべてアナログの世界で生きるか、自己のダミーペルソナを拡散し、自身を悟らせないようにするか、規則にのっとった最小限のことしか話さないか。
 アラマキは3つ目の方法をとっている人物なのだろう。与えられた期間に行うべきことをするしかない。
 K:sinにアクセスしたが、応答はなかった。気まぐれなのだ。eSで僕がみている空間は認識しているだろう。でも何かKに繋がることでもなければ話す気がないのかもしれない。
 妻が作った朝食の野菜スープだけが心を温めてくれる。ぬくもりは人の中にしかない。でも仕事には冷静な判断が求められる。
 朝のシャワーを浴びている間に、次にどうすれば良いかできるだけ論理的に考える。時間は限られていた。
 
  *

 まず情報管理権限で、Kの情報を収集するよう組織のAI・kernelに指示する。どんなデバイスを使用していたか現時点ではわからない。だからGPSによるKの位置情報の収集は不可能だ。古典的な方法だが、都市に設置されている監視カメラのデータを探索することが、ひとつのアプローチだ。
 残された暗号データに対してK:sinによる暗号化解除攻撃も同時に行う。生体データによる鍵の探索と、K自身の行動を掴む2通りの方法から探索する。K:sinの擬似生体データで解除できれば簡単だ。しかしKが身につけている何らかの物質やデータが鍵となっているなら彼を見つけるしか方法はない。社のPCは情報セキュリティ上、クラウドデバイスによるアクセスは不可の状態になっていた。PCにはカメラや音声入力、指紋認証、外部記録装置との接続などが許されていたが、空間デバイスなど通信を必要とするデバイスとの連携機能は有していない。セキュリティは制限されればされるほど高まる。
 だとすれば画像データによる認証か、生体データによる認証、パスワード認証、なんらかのデバイス接続の4種類の方法により鍵を生成していた可能性がある。
 画像データのうち、虹彩認証や顔認証、指紋認証などの生体データを鍵としていたなら、K:sinにより鍵の解除は時間の問題だ。あらゆる組み合わせの攻撃を72時間続ける。これにより鍵がみつかれば問題はない。しかしK自身が有している物体、なんらかの画像カードや物理装置が鍵となっているなら、K自身をみつけることが確かな鍵の入手法だ。

 社のデータベースには居住所の情報や連絡先の情報はない。アラマキの情報によると、すべての連絡はメールで行なっていたが、応答はないということだ。
 メールは古典的な連絡方法だが、アドレスからドメインは把握できる。組織のシステムによりメールアドレスから個人情報を割り出すことも可能だ。しかし通信内容は暗号化が施されていたということだ。自宅のPCから暗号化されたクラウドにアクセスし、メールを送信していただろう。送信側からドメインサーバまでの通信経路はわかっても、暗号化されたメールなら個人情報は抜き出せない。
 組織が把握している情報はすべてK:sinが知っている。ただ彼はKと同じように気まぐれで答えをはぐらかす。自分のできる範囲の情報を駆使して、Kの足取りを探ることが最善のことだ。
 思考は際限なくどこまでもKを追いつめようとしていた。しかしKは天才なのだ。さらにもっと複雑な方法で鍵を秘匿し、足取りをカモフラージュしている可能性がある。
 最終的に鍵はひとつの、あるいは複数のデータになっている可能性がある。
 妻は画像データを有するデジタルカードを常に携帯している。デジタルカードの中に画像データがあり、それが鍵になっている。もちろん画像データは何千枚とあるだろう。またデジタルカード自体にもパスワードが設定されている。しかし画像データさえ入手し、認証ロックの制限を守れればアカウントへのアクセスは可能だ。
 Kの場合はどうだろう? 何を鍵としたか? 鍵が何であるかを推測し、その鍵を入手する。
 残された時間のうち45分程度が経過した。成功を思い浮かべると気分は高揚したが、可能性の低さにも気づいていた。

 *

 オフィスにあるリニアエレベータの監視カメラからチェックを開始する。オフィスと外界の間には階段や通路はなく、場所や階数表示もない。リニアエレベータに乗らなければ、オフィスに入ることもできない。オフィスは従業員の虹彩データでアンロックすることができる。社のブロックはA245だったが、それが社のどの場所にあるのかは、推測できるだけだった。
 Kは日中の僅かな時間しかオフィスにいなかった。しかし虹彩データは社のデータベースにも残っており、リニアエレベータの監視カメラでも確認できた。
 最初のステップとしては悪くない。K:sinの有する虹彩データを本物のKの虹彩データに変更する。K:sinの創造によるデータよりも、実際のKの虹彩データの方が精度が高いことは明らかだ。
 クラウドデータからKの日々の通勤経路を把握することは容易かった。Kは社にはチューブ・トレインで帰社しているようだ。ステーションのカメラのデータを解析するにはT・S・E社のデータベースにアクセスする必要があったが、都市の情報管理者権限を付与されたことにより、アクセスすることができる。
 kernelは組織の基本AIでそこから解析AIなどを起動することができる。これは社の権限ではなく、より上部の有機組織体:United Future Organizationの権限を利用している。すべての社は別組織でありながら、このU.F.Oの管理の元にある。社会体の基盤であり、その下部にそれぞれのプロセスを担う、社がある。アラマキがどのような権限で都市データへのアクセス権を付与したのかわからないが、U.F.OのAIを利用できるなら、Kを追いつめることは容易だとも思える。
 監視カメラの解析情報から、失踪直前、9月22日のKの通勤経路はBP72付近からアラキス駅に徒歩で移動し、25分、イスカヤ738に乗車したことがわかる。アルルカ駅で降りて、徒歩で7分ほど移動している。これらの経路はU.F.Oの有する権限で、解析AIを起動させて割り出したものだ。
  *

 オフィスにあるリニアエレベータの監視カメラからチェックを開始する。オフィスと外界の間には階段や通路はなく、場所や階数表示もない。リニアエレベータに乗らなければ、オフィスに入ることもできない。オフィスは従業員の虹彩データでアンロックすることができる。社のブロックはA245だったが、それが社のどの場所にあるのかは、推測できるだけだった。
 Kは日中の僅かな時間しかオフィスにいなかった。しかし虹彩データは社のデータベースにも残っており、リニアエレベータの監視カメラでも確認できた。
 最初のステップとしては悪くない。K:sinの有する虹彩データを本物のKの虹彩データに変更する。K:sinの創造によるデータよりも、実際のKの虹彩データの方が精度が高いことは明らかだ。
 クラウドデータからKの日々の通勤経路を把握することは容易かった。Kは社にはチューブ・トレインで帰社しているようだ。ステーションのカメラのデータを解析するにはT・S・E社のデータベースにアクセスする必要があったが、都市の情報管理者権限を付与されたことにより、アクセスすることができる。
 kernelは組織の基本AIでそこから解析AIなどを起動することができる。これは社の権限ではなく、より上部の有機組織体:United Future Organizationの権限を利用している。すべての社は別組織でありながら、このU.F.Oの管理の元にある。社会体の基盤であり、その下部にそれぞれのプロセスを担う、社がある。アラマキがどのような権限で都市データへのアクセス権を付与したのかわからないが、U.F.OのAIを利用できるなら、Kを追いつめることは容易だとも思える。
 監視カメラの解析情報から、失踪直前、9月22日のKの通勤経路はBP72付近からアラキス駅に徒歩で移動し、25分、イスカヤ738に乗車したことがわかる。アルルカ駅で降りて、徒歩で7分ほど移動している。これらの経路はU.F.Oの有する権限で、解析AIを起動させて割り出したものだ。

 情報化社会。ある意味では現実の世界をすべて情報化する世界のことだ。しかし実際にはすべての生物、物体が完全に情報化されているわけではない。あらゆるものを分類し、特定のものを数列にして固有性を持たせて処理する。それが現在の情報化と言えるだろう。車に関して言えば、あらゆる車に所有者があり、それらはすべて情報化されている。しかしすべての車の位置情報が管理側に把握されているわけではない。位置情報を特定できない旧型の車両も走っている。それは個人のデバイスも同じだ。
 United Future Organizationのkernelを使用すれば、ある範囲までは個人を特定することが可能だ。相手が普通に生活している人間なら、1日の行動パターンなどたちまち抽出できる。
 しかし相手はKだ。特権階級の開発者であり、情報管理者の権限は有していなくても、テクノロジーがどこまで可能か、その仕組みを作り上げ続けている。こちらの手のうちのすべては知らなくても、彼にも推察する力はあるはずだ。またこちら側の情報はダミーデータを通じて、様々な情報が拡散されている。United Future Organizationなどという名前が漏れることはないが、社会体のシステムについて誤解も含めて理解している人間は多い。
 あらゆるリークがいくつかの真実をネット上に拡散している。だからダミーデータが必要になり、実際に社会がどう動いているか、情報は掴み取られにくくなっている。
 何十年分ものデータが管理側に存在するだろう。Kが今のように天才と言われる存在になるずっと前から、監視され、管理され続けてきた。どんな生育環境だったか、職歴、行動、思考。ありとあらゆる情報が管理側に存在する。それらのデータを管理しているのがK:sinだ。実際のKととても近い存在。彼がどのように生きてきたかを知る。
 アラマキからK:sinにアクセスする権限は与えられている。しかしK:sinを構成する膨大なデータにはアクセスできない。
  *

 外で誰かと話していることに注意を向けさせないためにパーカーを着る。eSを通じて、K:sinに話しかける。勤務中にいつもフォーマルな格好をしなければならない時代ではない。
「BP72地点でKが住んでいた場所を探す。本物のKに関する捜査ならつきあってくれるだろう?」
 そう言うとK:sinは少しだけ感情があるように言った。「Kの行動には不審な点があった。私はKに近づこうとしている。そう話しただろう?」
「だろうね」
 そう言うと玄関の扉をアンロックし、外へ出た。

 車を走らせながらBP72地点付近まで音楽を聴く。運転をしている時に音楽を聴く。これは習慣だ。Kの鍵のことについては気になっていたが、妻の言う通り、時には感覚にすべてをまかせてしまうことも大切だ。KのK:sinはeSを通じてみている世界をみているが、何も言わない。きっとあらゆるカメラ、データ、デバイスと繋がっている組織のkernelと同じように、外へ出なくても外の世界のことがわかるのだろう。
 社での仕事はフレキシブルで、時には外での仕事も許されていた。組織の情報管理者としてリソースを有効に活用する責任はあったが、すべての人間がひとつの場所に集まって仕事をすることも、あるいはそうでないことも、社によってルールが異なる。比較的高機密な業務は社のリニアエレベータを通ってオフィスに行き職務を行わなければならなかった。しかし外出先でもトンネリングプロトコルを利用した通信により、一般的な仕事なら外部でも可能だ。
 オフィスに縛られること。オフィスから解放されること。これらも業務に最適化されてきていると言える。コンピュータを中心とした業務に関しては、通信の暗号化さえ行われていれば、ある程度まで自由に業務を行うことができる。
 オフィスを持たない企業ももう何十年も前からある。問題はプロセスの結果なのだ。
 所属する社は機密を扱っている企業である為、社外でできる業務と、社内で行わなければならない業務は分けられていた。特に情報管理者は、いくつものオフィスのデータやハードウェア、情報の管理を行なっていた。リモートでの作業もあったが、複数のオフィスを訪れる。すべて社の管理下のものだが、行わなければならない業務範囲は広い。
 Kとは挨拶すらしたことがない。特権階級の上級開発者だ。開発者たちの管理も仕事だったが、収入は彼の方が数倍は上だったに違いない。
 BP72付近で駐車し、eSのpersonaにKの住居の近くまで案内させる。
 付近は公園や学校、病院などが集積して生活環境が整った住宅ブロックだ。

 *

 屋外での業務は久しぶりだった。太陽の光が輝いていてストレスを軽減するセトロニンを多く分泌できる。昨日の深夜業務の疲れがまだあったが、身体に疲れは残っていない。深く眠れさえすれば疲労はそれほど感じない。いつの間にかプロフェッショナルになっていた。
 住宅街は時折、人が歩いているが交通量はそれほど多くない。eSを通してK:sinもこの町を見ているだろう。でも空気感や風のそよぎ、日差しの温かさまでは感じることができない。
 K:sinは人工知能と言っても不完全な存在だ。様々な計算を瞬時に行うことができる。歩いている人が誰か一瞬でデータベースから収集することもできる。またその人間のK:sinを呼び出して情報を集め続けているかもしれない。一瞬で意思疎通する圧倒的な情報の転送。でも僕は信じていた。一瞬で情報を転送しあう人工知能よりも、人間がふとした会話や触れることのできる体温、そして目と目で交わす視線など非言語的なコミュニケーションを通じて心を通わせていくことの方が、より深いコミュニケーションだと。
 妻と出逢った時、そして結婚に至るまでの間に学んだこと。彼女との出会いは、人生観を覆すような出来事だった。
 情報管理者としての業務を行なっていたから、あらゆるものごとはコンピュータが処理できる数値に置き換えることができると考えていた。言語化や数値化できないものなどなく、すべては計算可能だと。
 でもそれらが間違いであることを教えてくれたのが彼女だった。自分が偏った思考の持ち主で、彼女は自分の感じている世界をどうにか伝えようとしてくれた。
  なぜ人間が微笑みを浮かべるのか? その柔らかな視線は何を訴えかけているのか? コンピュータの世界で仕事をしていた僕には彼女はとてもミステリアスに思えた。そういう時、彼女は生きているものはすべてミステリアスだと言った。
 雲間から光が空を射抜いていた。この世界の美しさをAIは感じることができるだろうか? 1億4960万kmの向こうから放たれた光は、直接みると目に損傷を与える。でも雲と雲の間から漏れる光は世界を美しく彩り、崇高さを教えてくれる。データとして光を認識しても、感じられないことがある。K:sinがレンズを通して世界を数値として捉えたとしても、実際の世界とは多くの違いがある。Kならどう考えるだろう。
 BP72地域は文教地区で教育政策的に正しさを目指している街並だ。静かな住居群とショッピングモール、医療施設、文化施設、教育施設などから成り立っている。居住者は7万人程度で、多くの人間はこの地域の外に仕事を持っている。チューブ・トレインが行き交うアラキス駅を中心に都市は形成されており、すべての区画はAI上に管理データを有する。21世紀の半ばに建設されはじめたスマートシティだ。社がAIの制御によるプロセスとなっていったことと同じように、町も制御されたシティへと変化していった。
 人工都市。規模こそ小さいが、無数の原型を持つ都市群のひとつだ。データ上に構築されたモデルと地形を分析し、人々の行動をAIにより解析させ、リソースを最大限有効に活かせるよう設計されている。
 BP72地域は静寂を求める郊外生活者たちが住む地域で、安らかな自然との共生が都市宣言として採択されている。個人として人工的な世界に住みながら、自然環境にも配慮されている。
 スマートシティには様々な原型がある。それぞれのシティへの居住にはライセンスの取得が必要だ。Kは居住権を充分に満たす人物だったのだろう。最低限、環境に配慮した行動を心がけることが求められるはずだ。
 人の生活パターンは様々だ。深夜までパーティを繰り返し、刺激と出会いを求める人物群もいれば、穏やかな環境を求める人物群もいる。またそれらはライフステージの違いと考えることもできる。
 Kは寡黙なタイプだった。静かな町できっと自分だけの何かを追い求めていたに違いない。
 歩いていても、人とあまりすれ違わない。
 天才とは他の人とは際立って異なる性質を持つ。あるいは誰もが際立って異なる人間なのかもしれない。しかし孤独を愛する人間と、活発な交流を求める人間には違いがある。それはひょっとすると人間的な気質の違いなのかもしれない。そう考えると自分はどこまでも中間的だと思う。人と触れ合うことが人生における喜びのひとつだと認識していながら、深くコンピュータやネットワークの内部に関心を向ける。あるいはディスプレイの向こうにこの世界とは違う新しい何かを探している。

 そう考えると、Kと自分はいったい何の違いがあるのかと思う。自分には新しい世界を夢みても、生み出す力がないだけなのだ。
 自然まで管理された街並み。街路樹が歩道沿いに等間隔に植えられ、公園や森林地帯や川も存在する。それらの情報はレンズ型デバイスを通してみれば、さまざまな情報が入手できるようになっている。管理された世界の中の自然。BP72付近を歩いていると、自分が巨大な人工物の中を歩く小さな生き物のような気分になる。目的は与えられている。そして自分はこの町を管理するような人間のひとりだ。
 Kが何を企んでいたとしても、それは自分が生きることに繋がっていたのではないか? 与えられた業務ではなく自分自身が生み出す力。管理されることを拒んでいたとしても、それは彼が生きるために必要なことだったのではないか?
 BP72地区に住む静寂を求める人間たち。その静けさの中で何かを考えていた。鍵がみつかりデータの中にあるものが何であったとしても、彼が求めていることはわかるような気がした。これはまだ大雑把な推測にすぎない。しかしこの管理された静寂の中で何かが生まれていたのだ。
  *

「ここだ」
 長い沈黙の後でK:sinがeSのイヤフォンから話す。
「Kはひとりでここに住んでいた」
 住宅街の中にある家は灰色の壁に囲まれている。外観を特徴づけるガラスは今は暗く透明度を落とし中を覗き見ることができない。車庫のシャッターは降りている。ドアは固く電子ロックされている。レンズ型デバイスには何の情報も表示されない。
 外観から厳重な警戒は感じられる。そのまま家を通り過ぎる。
「警戒が厳重なだけじゃない」
 小声でK:sinに話しながら通り過ぎる。「監視カメラがしかけられているかもしれない」
 直感的にそう感じる。
 K:sinは言う。「誰もが自分を守ろうとしている」
 Kの自宅に近づいたのは正しかったのか? Kは顔を知っている。ネット越しに家を確かめるだけでよかったのではないか?
 パーカーをかぶりそのまま通り過ぎる。
 物理的に近づかなければ感じられない。直感は現実を感じることから生まれる。しかし物理的に近づくことは危険も存在する。
 歩きながら、K:sinに話しかける。
「家はKの印象そのものだ。設計まで自分で行なっているのか?」
「建築物の設計の経験はある。関心が多方面に向かっている」
 近づくものをみようとしている。それはKと相対した時から感じている。こちらを逆にみるまなざし。Kにシステムの情報管理権限はない。町中の監視カメラからデータを抜き出すこともできない。Kのシステムのアカウントはロックされ、もしシステムを利用しようとすればわかる。
 どこかで息を潜めている。
 静かにこちらをみている。
 彼はただ自分を守ろうとしているだけではない。ふと後ろを振り返ったが、誰もいない。自分の影があるだけだ。
「誰もが誰かにみられている」
 静かにK:sinはそう言った。
  車に戻り周辺を走る。BP72地区は静謐そのものだ。車の電子モーター音が聞こえるだけで時間を刻む音もない。
 BP72地区は静けさを中心とした町だ。町の住人たちは静けさを守るテストにパスし、ノイズキャンセリング装置の使用を義務づけられている。静けさを求める人々が集う地域。BP72地区にある静けさは沈黙の静けさだ。ひょっとすると町の誰もが心の静けさを求めているのかもしれない。プログラムをするには最適の町だ。夜はさらに静かになるだろう。来訪者はルールを知っていても、どうしても目立つ。静けさに対する習慣がないからだ。足音のしない靴を履き移動する必要があった。監視カメラなどでチェックしなくても、誰かが来たことはきっと音で判断されている。
 少なくとも近づいたことは悟られているだろう。しかしKだけではなく、この町に住む誰にも僕の存在は異質なのかもしれない。
 一度、考えを整理する必要がある。
 車を規制のない地区へ走らせ、カフェにでも寄ろう。
 侵入者はその痕跡を消さなければならない。しかし物理的な場所で響いた音を消すすべはない。
 車の中でeSのpersonaに美味しい昼食をとれるカフェをピックアップさせる。
 オーガニックフードを提供するカフェが移動5分内にみつかる。
 有機的な食事は生きている喜びのひとつだ。価格帯も悪くない。
 すぐに店に辿り着く。
 店内はそれほど賑やかなわけではないが仕事を行うまでの静謐さはない。

 eSをノイズキャンセリングモードにし、Ringsによるキー操作で情報を整理をはじめる。
 まずBP72地区の地区条例事項について確認する。
 やはり幾つかのマナー違反があったらしい。BP72地区の条例違反リストに僕の名前がある。法的な違反ではないが、それぞれの地区の違反者は自動的にネット上にアップされ、注意を受けることになっている。
 つまり僕のBP72地区の訪問は町の誰もの知るところになっている。
 Kがネットに接続できる環境なら、僕の彼の家への接近は知られたと言っていい。
 充分な考察の元に行動ができていない証拠だと反省する。普段なら気にしないこうした多様な地区の条例事項のチェックは、違反してもネット上に名前が掲載されるだけだ。しかし今回のようなケースに関しては命とりになりかねない。
 こちら側が入手できた情報はKの住居の場所と外観、BP72地区の町の雰囲気だ。住居の場所をK:sinが明かしたのは、Kの思考が居住地の徹底隠蔽ではなく、付近に近づいたものに対しては開示となっているからだろう。ネット上では守られていた住居情報を得られたことはひとつの達成だが、逆にKは近づく人間を捕捉するAIを利用しているだろう。監視カメラだけではなく、BP72地区に住むこと自体が彼の思考をあらわしている。
 近づく者には伝えるが、その近づくものが誰かは知る。
 Kの思考の一端は明らかだ。
 次に逆にこちらの情報がどれぐらいKに開示されたかだ。
 居住情報は隠蔽にしている。学歴、職歴なども隠蔽だ。しかしKには顔は知られている。Kがもし僕の名前を知っていたら、Kの家に近づいたことは知られただろう。
 こちら側が得た情報からはKの居住地域へのハッキングをしかけることができる。
 K:sinなどのAIは一般には知られていないが、その情報は組織によって秘密裏に集められたデータから作成されると推定はできる。
 ネットワークからのハッキングによって家庭ネットワークへのアクセスぐらいは可能かもしれない。
 しかしそれらは違法行為であり、侵入者感知システムなどがあれば逆に不正侵入が明らかになりこちらの立場が危うくなる。
 情報管理者は裏の手口も知っているが、相手はKだ。
 ここはアラマキに事情を話して、情報収集ネットワークへのアクセスをはかるべきだが、おそらく権限は与えられないだろう。
 情報の秘守と収集。しかしすべての権限が与えられることなどない。
 
  思考を続けているとeSに着信があった。Ringsで確認すると暗号化された匿名のコールラインからの通信だ。情報管理者や開発者だけでなく多くの一般人が匿名のアバターを使用し自身を隠蔽した状態でチャットや通話をする。なかには社へも秘密にしているアカウントも存在する。もちろん、それらは秘密にしているとこちらが思っているだけなのかもしれない。
 アバター名はS.sid。名前に意味はないかもしれない。このタイミングで匿名で接触してくる相手はKか、Kに近い人間だと考えられる。しかしS.sidが誰かを探ることは難しい。コールラインを運営する企業は、その匿名性を売りにしているからだ。
 コールラインに出るべきか? あるいは無視するべきか?
 数秒迷うが、無視し、逆探知することにする。
 コールラインの暗号網は一般的には暗号化されていて匿名を保証されていると言われているが、裏では情報の取引がなされているケースがほとんどだ。会話の内容は匿名と言われながらビッグデータとしてAIの解析を受け分析される。この世界に本当の匿名性などない。
 AI・kernelに、アクセスしてきたアバター、S.sidのことを探らせる。本名はわからないが、アクセスしてきた位置情報はわかる。活発な交流で盛んな享楽都市sMoonからだ。ここからの距離は約100km。大規模な交流都市で、BP72と比較すると騒音だらけだ。人が誰かを見つけたいならsMoonのような都市に集う。Kの趣味ではないような気はするが、KかKに近い人間がアクセスしてきたことは間違いない。
 スマートシティのうちsMoonのような享楽都市は、男と女、男と男、女と女が出会う場所だ。もちろん目的は様々だ。しかし誰かが誰かを求めるなら、交流都市に行くだろう。人口は50万を超え、人々の出入りも激しい。ネットワークがいたるところに張り巡らされ、誰が誰と出会うことも自由だ。

 レンズ型デバイスに表示される情報も華やかになる街だ。道ゆく人々が情報を開示している。享楽都市とはそういうものだ。
 Kのようなタイプの人間がそんな場所に行くだろうか? あるいは人が密集している場所の方が匿名性が保たれるのかもしれない。Kの思考はまだ読めない。
 sMoonのような享楽都市はスマートシティとしては比較的新しいものだ。古くからある歓楽街に近い雰囲気がある。ただすべてシステムに管理されている。旧世界では不法が行き渡った歓楽街もシステム化され、必要性が法的に認められている。ライフステージによって、あるいは境遇によって人が人と出会いたい時期があることが証明されている。人と人が生身で交流することこそ、人生の意義だととらえる学者もいる。人間が密接に関係しなくなった現代においても明らかだ。
 ネットワーク越しにではなく直接、人と人が出会う。そこには未だ神秘がある。しかしそのぶんシステムはsMoonでの人と人とのアクセスの監視を厳重に行っているという噂だ。何が真実かはわからない。そしてS.sidが誰かもわからない。しかし、もしKが直接の接触を狙ってきているなら、sMoonほどふさわしい場所はないかもしれない。
  人と人は理由があって出会う。まだ異性という存在がどういう存在かわからない時期に探るようにパートナーを求める。人と人の出会いが自分を成長させてきた。そうは思うものの、人との出会いの中には危険もあった。
 旧社会では歓楽街をマフィアがしきっていたという。違法な金がどこかからどこかへ流通し、危険な社会を形成していた。現代社会ではそういったことはない。すべては組織—システムが管理し、享楽都市に出入りする人間を管理している。人と人の接触はすべてシステムが知るところであり、現実的な接触も享楽都市のような形で管理されている。組織—システムが考えることは世界から危険を排除することだ。人と人の生身の接触の管理がされはじめた頃はウイルスが理由だった。旧世界を何度となく災害やウイルスが襲った。超越心理学によると、災害やウイルスの拡散は世界の深層からのメッセージであり、変革期には仕方のないことだったと説明されている。
  旧世界の元となったいくつかの宗教社会では、病や災害がなんらかの神様の禍々しいメッセージとして感知されていた。旧世界ではそれらは科学的に否定されていたが、現代では心理学の発達によって関係性が明らかになりつつある。それらもまだ常識というレベルでは浸透していないが、超越心理学で扱われる分野のひとつだ。
 ある学者は自分自身の無意識と世界の実像が繋がっているという説明をする。ただそれらは専門的な領域で、妻のような心理学者でないとわからない部分も多い。つまり普通の人間には感知できない領域があるのだ。
 超越心理学。コンピュータを人間が操作できる範囲を意識と仮定し、コンピュータが動くためのみえない領域を無意識と仮定した。そしてコンピュータやネットワークが人の生成した内界の外界への心理的拡張であるとした。人の生成物は人の心理と関係する。人の生成物が内面をあらわしているなら、この世界の変化もまた社会体の変化のあらわれである。そう考える人々だ。それが超越心理学の基本的考えだと言われている。
 トランスパーソナル心理学を母体とした超越心理学が現代では発達した。生まれたばかりの子どもは自我を持たず全能感にあるという研究が進み、自我を獲得する人間という存在が、自己実現状態からさらに超越することがあるという心理研究だ。自我を獲得することにより全能状態を失い、個々人がばらばらになっていくという心理推移から獲得されるのが、それぞれの個であるのに対して、超越心理学はそれぞれの個が全体と繋がり、新たな世界像を獲得するとされる。
 旧世界では多くの問題が負の連鎖によるものと判断された。戦争や暴力、虐待などの人格への影響が負の連鎖を生み、人が何世代かかっても解決できない傷を受け継ぎ続けると判断された。その傷を救うとされるのが超越心理学であり、超越心理学と組織—システムには繋がりもあるらしい。おそらくだが、論理的な解決だけでは人の苦しみを救うことは難しいのだ。
 20世紀のなかばに社会主義国家である実験があった。凶悪な殺人を犯した犯罪者の子どもに、親と子を切り離し、負の連鎖から逃れた家庭環境を与えた時に負の連鎖は発現するかという実験だ。実験は秘密理に行われ、負の連鎖は遺伝ではないとの結論がなされた。
 これらも正式にエビデンスがある情報ではない。社会に蔓延する噂のひとつだ。生まれたばかりの子どもにすでに人を殺すような悪が芽生えているはずがない。妻のような臨床家の話を聴くと、多くの悪は、親や学校などの社会環境から伝播するとされている。少なくとも組織—システムや超越主義者たちは、悪の根絶を計画し、負の感情の管理につとめている。それが現代社会だ。
 生物は他の生物を食べて生きる。根源的にはそこにキリスト教の言う原罪があるだろう。人間同士で殺しあうような悪、自分の優位を手にしようとする感情など様々なものがあるが、人を肉体的に、あるいは精神的に傷つける行為が悪と認知されるようになった。旧社会と新世界の大きな違いは精神的な傷に対する考え方だろう。他者に対して精神的な傷を与える行為の厳罰化のために社会は大きく変化した。直接的な人間同士の接触の管理がすすんだのも、そういった人々への悪意を社会からなくすためだ。しかしそれらの試みはよくいって旧社会より少し進んだという程度にすぎないかもしれない。善なるものも、悪なるものも模倣から生まれる。善が生まれるところに悪が生まれるわけではないが、新旧の社会分離は完全ではない。
 多くの社会主義国家のような言論統制が行われたわけではない。しかし世代をまたぐごとに受け継がれる文化に社会的介入があったことは否定できない。世代間にはもともとそれぞれのアイデンティティとなる世界観に違いがあり、親世代と子世代の価値観には元々、大きな乖離がみられていた。そして親世代から子世代への悪の伝達に大きく社会的な介入があった。特に2020年代から2030年代にかけては世代間の分断はすすんだと言える。
 それらはすべてインターネットの発達と心理学の発達によってすすんだ現象だが、まずは価値観のシフトが進んだ。大きな変化は2020年以降にはじまったと言えるだろう。
 旧世界の記録は書物で読むことができる。しかし本を読む人間は極端に少なくなった。インターネット上で情報は得られるからだ。古い世界のことを研究する学者は書物を読む。しかし現代に生きる人間にとって本はもう失われた文化だ。インターネット上にある情報が世界のすべてになりつつあった。
 初期コンピュータのメモリ管理のロジックはリソースの管理のロジックとなり、ネットワークトラフィックの理論が現代のロジスティクスに応用された。数多くの社は連携し分散してそれぞれの業務を行なっているが、基本的なロジックは同一、あるいは2つか3つぐらいの理論を元に構築されているという気がする。本質的な情報の開示は情報管理者といえどもされていない。
 Kのような開発者は世界をさらに発展させようとしている。なかには大幅に世界を変えてしまうような理論もあるだろう。しかしKの考えていた中身を社の業績と結びつける。仕事として今、僕がしなければならないことだ。
 カフェを出て車を走らせる。sMoonへ向かうことも考えたがKに繋がるという保証はない。
 Kがどう社会から消えたのか? 探らなければならない。
 
  *

 BP72地区付近。社付近。アルルカ駅付近。それらの地区で肉眼でしか確認できない情報を集め、自宅に戻る。いつものようにエレベータの物理ボタンを押す。扉をアンロックし、自室に戻る。妻はまだ帰ってきていないようだ。
 K:sinが保有するKの生体データによる暗号化解除攻撃は続いていた。簡単に暗号の鍵はみつからない。Kの足跡も途絶えたままだ。不審な匿名コールラインからの着信が1件と、社でKに関係する人物の証言データの収集、そしてKの住居の確認。進展が皆無というわけではないが、まだ何も掴めていない。時刻は17:48。アラマキは問題を公にしたがらず、警察の手は借りることができない。もし警察の手を借りることができたとしても、社やU.F.Oが持つ以上の情報が警察内部にあるわけではないだろう。旧社会から続く警察組織には法に基づいた明確な役割がある。しかし古いPublic Organizationは昔ながらの業務を行なっている。資本主義社会が終焉を迎え民間企業と呼ばれる組織がなくなっても公共組織は存続した。警察も古くから続く組織だ。しかし情報化社会における有機組織体:United Future Organizationはオープンな組織ではない。U.F.Oと警察もどこかでは繋がっているだろう。しかしこの世界は法と秩序による表向きの世界の向こう側でアルゴリズムによる世界が蠢いているのだ。
 物理的な犯罪には警察が対処する。法はこれまで通り機能している。しかし法は簡素化され基本的な部分のみを規定するようになり、細部に関してはアルゴリズムが判断するようになっている。言葉よりもロジックによる明確な判断が有効だと認められた世界だ。言葉で定義しようとするよりも、数式が時に雄弁だ。そしてアルゴリズムの深奥はコードを解読することができるエンジニアの世界になり、ルールはアルゴリズムを理解することができるものが決定するようになった。Kのような開発者たちだ。
  もちろん言葉で理解できる範囲の法は以前のままだ。透明性の確保のために多くのジャーナリストがAIのロジックを言葉に置きかえようとしている。しかしクローズドなシステムである社会有機体:United Future Organizationのことすら秘密の世界だ。すべてを把握している人間などいない。
 社会は進化している。有機組織体がコンピュータを構成するロジックを応用して社会を組み替え続けている。それらは社として機能し、人々はその社に勤務している。しかし知ることができることは自分に与えられた領域のことだけ。情報管理者も例外ではない。
 僕は多くの情報にアクセスできる。社会組織体:U.F.Oのシステムにもアクセスできる。しかしすべての行動はログに保存され、問題があれば監査にかけられる。自由はあっても、それは権限の範囲内の記録される自由だ。上が僕について何かを知ろうとすれば、その情報は入手される。情報管理者として問題をおこさないことが確認されているからこその特権。初期コンピュータの管理者権限と同じだ。何か問題を起こせばすぐに上に連絡がいく。
 有機社会組織体:U.F.Oは分割された社の集合体としてありながら、AIによってそれぞれの社を動かしている。コンピュータがそれぞれのアプリケーションを起動するように。そしてすべての社はユーザを第一に考えている。多くのユーザの判断がU.F.Oに伝わり、その意志を実現するべく社が動いている。Public Organizationは古い体制のままだが、それでも情報化がすすんだ。法案に対して意思決定をするのは人々だ。社会の課題を政治家が訴え、それを人々は判断する。人々の意思はAIによって判断され、Public Organizationが意思の実現のために動く。以前よりは民主主義が進歩した世界だ。しかし公の組織が民意で動くように、United Future Organizationも民意で動く。公が人々の意思表示で動くのに対して、U.F.Oは秘密裏に集められた情報を駆使しているだけだ。K:sinのように。Public Organizationは人々の意思を実現するために動く。
 U.F.Oは秘密裏にAIによりすべてを計測し続ける。資本主義の時代にも人々が消費という形や投資という形で社会形成の意思決定に関わっていた。そして勝つ企業と負ける企業にわかれ、進化が果たされてきた。しかし人々の消費という判断や投資という判断はすべてが正しくなかった。有機組織体:United Future Organizationが行なっているのは、人々の本当の民意を読みとることだ。国家が直接的な民意なしには意思決定できないのに対して、有機組織体は人々の民意をさきまわりしようとしている。人々がみたこともないもの。感じたことがない喜び。そして想像することがなかった世界。そういう世界を実現しようとしている。Public Orgnizationがどれだけ民意の元に自身を運営しようとしても、いつも社会の進歩は人々の意思表示の後だ。有機組織体がPublic Organizationよりも常に先手を打ち続けているのは、民意を先に捉えようとしているからだ。
 もちろん世界のすべてが進化し続けているわけではない。警察のように古いままの組織もある。変わらない世界もある。情報化社会を捨て、電子機器のないコミューンを作るものたちもいる。そのすべてを含めて現在の社会がある。
 冷蔵庫からジンジャー・エールのボトルを取り出し飲む。ウエアラブル・デバイスeSでリラックスできるプレイリストを再生し、レンズ型デバイスに瞑想に相応しい映像を流す。心地よいひと時だ。レンズ型デバイスが生み出す映像と、アンビエントな音楽があれば、別の世界へトリップすることができる。ここにいるが心はここにない。思考を切り替えるのに有効な方法だ。Kの鍵をみつける。目的は変わらないが、常に問題に囚われているとパフォーマンスが落ちる。美しい音楽と映像に気持ちを向ける。レンズ型デバイスが音楽にあわせて美しい幾何学模様を描き出す。まるで自分が別の空間にいるみたいだ。世界には何も問題がなく、すべてがうまくいっている。そう錯覚させてくれる。目の前の問題を忘れることが新たな視点から問題をみるためのアプローチになる。そう考えるようになったのはいつ頃からだろうか? 誰にも自分だけのパーソナル・スペースが必要だ。そしてそのパーソナルな空間はMR(複合現実)として存在する。もちろん何か問題が発生すれば、すぐに現実に戻れる。でも疲れた心を解放するパーソナル・スペースが人々には必要なのだ。
 仮想空間に浸ったまま、眠ってしまうこともある。でもその眠りすら計測されている。もし眠りこんだとしても、一番目覚めにふさわしいところで現実に戻れるだろう。AI・personaがその時を判断してくれる。そして僕はすこしの間、まどろんだ。
 
  *

 目覚めると妻が帰ってきていて料理をしていた。妻のバイオリズムはいつも料理に顕れる。人々の調子の良さは何らかの行為によって顕されるものだが、彼女の調子の良さがわかるのはいつも料理だ。何の素材を選び、どのような料理を作るのか。様々なレシピを参照し料理を作っている。でもその料理の統合性が彼女の調子を顕している。今日はどうだろうか? いつも出来上がる料理から彼女の調子を感じとる。
 社会には型がある。料理にも型がある。会話にも型がある。でも本当は人は自由だ。その自由な表現にこそ、その人が顕れている。型に従えば悩む必要はない。AIが提示するレシピも料理の型とも言える。でもその型の通りに行おうとしても、うまくいかないこともある。それが人間というものだ。
 妻はこれまで作ってきたあらゆる料理と、AIが提示するレシピを参照して料理を作っている。素材にあうように調味料を組み合わせ、香辛料も加える。コラージュ・アートのように彼女の精神が料理に投影されている。彼女の繊細な感性が料理を彩る。
「お帰り」彼女にそう言うと彼女は「ただいま」と返事をする。1週間のうち、3日が僕の料理の日で4日が妻の料理の日だ。僕の料理の腕はたいしたことはないが、彼女は僕が料理をすることを喜ぶ。僕たちは対等な人間なのだ。
 目の前にヴィーガンの料理を参考にした野菜のグリルと、ガパオが並んだ。色鮮やかな野菜によるヘルシーな料理だ。
「何か良いことがあった?」尋ねる。
 彼女は「いつもと同じよ」と言う。

 心理臨床家としての彼女の仕事はクライエントの心をアセスメントし介入する。セラピストとクライエントの間にあるものは時には言葉であったり、箱庭であったり、プレイセラピーであったりする。つまり今、妻の間には料理があり、その料理から妻の心理的状態を探ろうとしている。妻と接する中で妻の臨床的な考えを聴きながら身につけた臨床観だ。
 臨床家として妻は臨床心理士とは何か? ということを教えてくれた。それは広義の意味においては妻から学んだことのひとつだ。妻の領域にあるものごとを学ぶことで、妻のことを知るようになった。逆に妻は僕の領域にあるものごとを知るようになった。
 心とは何か? 難しい問いだが妻はあらゆる行為に心が介在していると言った。
 出会ったばかりの頃、妻は心を読めるのではないかと恐れた。彼女に恋をしていて、彼女に自分の心がすべて見透かされていることを恐れた。でもそれは無知ゆえのあやまちだった。臨床心理士とは心を読めるような人々ではない。相手を観察し、相手がどういう人間か人物像を推測しながら内在化しその人を理解する。それが臨床というものを知らない人には魔法のように思えるにすぎない。相手と深く関わることで相手を知ろうとする。それが彼女の言う臨床だった。
 妻とは10年以上、時間をともにしてきた。彼女の中に僕という人間が内在化されている。僕という人間の行動パターン。知識。肉体。
  それはK:sinとは違うアナログな人間理解だ。彼女は愛を持って接し、そして彼女の心の中に僕という人物像を作り上げた。そして彼女が接してきた様々な人物群が彼女の中に内在化され、彼女なりの人間観を形成している。
 妻は僕という人間を理解し、どう行動するのか予測する。それは彼女なりの愛のある未来予測だ。どういう時にどういう行動をとるのか。そういうことを彼女は知っている。それに対して僕は彼女の料理から調子を想像しているにすぎない。お互いを理解することで、それぞれの人間観はアップデートされ、僕たちは夫婦になった。
 彼女はどこまでもミクロな視点で相手を見つめ、相手の人物を心の中に描く。でも僕はどちらかと言えばマクロな視点から人間を理解しようとしていた。親子関係、家族関係、そういう人と人の関係性が社会の中で再演されることを理解したのも、彼女に教えを請うたからだ。
 K:sinが様々な情報から人物像を作り上げることと、妻が相手と接することで人物像を作り上げることと何が違うのか?
 両者には隔たりがあるように感じられた。臨床心理士たちは常にクライエントを中心に考え、クライエントが話してもいいと思ったことなどを元に相手を常に想像して敬意をもって自分の中に人物像を作り上げる。でもK:sinはどうだろうか?
 有機組織体:U.F.OがK:sinに絡んでいるとはいえ、そのすべてを知ることはできない。でも想像はできる。
 もし妻のように相手を内在化できるなら。AIはすべての人間を内在化して、すべてのパターンを元に未来を予測できるのではないか? すべての世界が内在化された世界を想像する。僕という人間も、妻もそこに含まれている。ここがヴァーチャルな世界ではないと言えるだろうか? 古典的なSFの話だ。でもAIは世界を内在化できるのだろうか?
 「今日の料理は美味しかったみたいね」
 そう妻は言う。「いつも美味しいよ」と言う。
 AIに含まれているよりも、妻に含まれていたいと思う。妻に理解され、妻に愛される存在。そうあり続けたい。そうあり続けることで救われてきたことを知っている。妻が僕のことを知っているのは、妻が僕のことを愛しているからだと知っている。
 世界を内在化したAIはその世界の中にいる人々のことを愛してくれるだろうか? 情報管理者としても世界をそういうふうに捉えることは難しかった。どちらかと言えば世界に利用されている。誰かが世界を思うがままにしようとしていて、それに巻きこまれている。そう考える方が現実に近かった。
「ある開発者が行方不明になった。開発内容を暗号化した状態で。今、彼の行方を追っている」
 妻にそう話した。もちろん業務のことを話さない家庭もあるだろう。でも僕の家庭はお互いの守秘義務を認めつつもオープンに話している。お互いの仕事上の悩みについて妻以上に信頼ができて相談ができる人間などいない。
 妻は「行方不明になった人物と暗号化された内容のどちらもを探しているの?」と尋ねた。
「上は業務がすすめばいいと考えている」と返事をした。
 妻は「でも開発されていた内容はわからないのよね?」と言った。

 ヴィーガンのレシピは健康的でガパオも肉は使われていなかった。妻はヴィーガンではないが、時々、菜食主義的な料理をする。肉を食べないからこそ育まれる文化がある。この情報化社会でコンピュータネットワークに関わらない人たちが住むコミューンがあるように。それらは生き方の違いであり、文化の違いが生まれ、その文化の違いを横断して利益を享受する。妻が料理しているヴィーガンの料理をヴィーガンではない人が食べることができるのも、そこに文化的な交流があるからだ。ヴィーガンが苦心の末に生み出したレシピを享受することができる。それと同じように天才的な力を持つKともなんらかの形で交流があったからこそ、この現実は進化することができる。Kは天才と言っても社に属していたのだ。KはKなりにどこかの時点までは社を必要としていたはずだ。しかし秘密を抱えたまま消えてしまった。特権開発者の研究内容は世界を変えてしまうものが多い。そんなものがこのままでは消えてしまうのだ。そこには断絶がある。
「特権を持つ開発者の研究なんてきっと理解できない。でも情報管理者としてその中身は見つけなければならない。そう上から言われている」正直に妻に話した。
「でも鍵はわからないのよね? 鍵なしで暗号化された内容を解読することなんて可能なの?」
 妻は僕のことを知っているし、この社会について知っていることを共有している。彼女が知っていることを共有しているように。
「確かに困難な事態だ。でも上はどうしても作業の進捗を知りたがっている。K自身を見つけるか、暗号化された内容を解くか。どちらかの問題を解決することを命じられている。そのための権限も与えられている」
「つまり、なんとかしなければならないわけね?」
「そうなんだ」正直に話した。
 ある時には彼女の持つ心理学的な見地と僕の持つ情報学的な見地から様々なことが理解できた。人と人が交流することで世界が広がる。子どもの頃には当たり前だった視点が、社で働くようになると薄れていた。本当にチームで働くことは目標の達成に効果的なのか? 疑問に感じることも多かった。もちろん今ではそれは組織化の違いによると判断されるべき問題だとわかる。でも本当は妻との関係のようにお互いの心を共有しあうことこそ、人間が最も発展的になるのではないかとさえ思えることがある。もちろんそれは妻と深い信頼関係を築くことができたからこそ感じることだ。
 社でプロセスの一部となり、役割を全うする人間になることで得られることも多かった。でも組織化というものに疑問を持つようになったことも事実だ。お互いが交換可能でありチームで役割を果たす。それが必要であることも理解している。しかし交換可能な人間関係によって生み出されるものごとというのは、所詮は交換可能な結果にすぎない。Kのような特権開発者は交換不可能な存在だ。だからこそたったひとりが消えてしまっただけで、上が慌てている。もちろんそういう開発者を組織のためにコントロール可能な状態にしておくことも組織の役割だろう。少なくともKが扱っていた端末に関しては情報管理者である僕の仕事の範疇だった。その端末にある情報を守ること。情報管理者として行わなければならないことのひとつだ。
  Kは特権を持っていた。そしてひとりだった。ひとりですべてを計画し、すべてを開発していた。それだけの力がKにはあった。情報管理者はKの端末や情報を管理していたにすぎない。しかしだからこそKが自身の端末に暗号化を施し、消えてしまったことが問題だ。Kは社の監視にも気づいていたし、自身の開発している内容の価値を十全に理解していたのだろう。ひょっとすると元々想定していた内容よりも、もっと高い価値がある内容を発見したのかもしれない。でもU.F.Oの組織網から消えていったい何ができるというのか? すべての社は繋がっているのだ。考えられるのは古い組織体であるPublic Organizationにとりこまれたか、あるいは情報化社会の監視の届かない自然主義コミューンに逃げたか。
 あらゆる可能性が考えられる。それでもU.F.Oの情報網から逃れることなど、ほとんどありえないのだ。
 有機組織体:United Future Organization。社を表の顔として裏ではすべてが繋がっている組織体。その存在すら秘密であるのは、セキュリティのためだ。この世界にすべてを理解する人間など必要がなくなったからこその社会の進化。それがU.F.Oなのだと思う。旧世界から続くPublic Organizationは国民の意思を実現する組織だ。すべてがオープンに運営されている。それに対してU.F.Oはすべてが秘密だ。社同士の繋がりがロジカルにコンピュータを模して管理されていることが明らかになればどうなるのか? きっとコンピュータに対して常に脆弱性を探すハッカーやクラッカーがいたように、この社会のシステムに攻撃をしかける者も登場するかもしれない。秘密にされたクローズドなシステム。それが現代社会が出した答えだ。

 妻が語りかけてきた。
「人間にはその内面に自由に想像していい世界がある。それは誰にだってあるし、わたしにだってある。実際に経験した体験や空想、そして様々な物語を通じてそれぞれの個人の心の中には内的な世界が生まれる。それはひとりひとりが違う。とても大きく発展していくこともあれば、心の中に現実の世界しか存在しないという人もいる」
 妻の言うことは最もだ。僕には僕の心の中があり、妻には妻の心の中がある。Public Organizationの法律には内心の自由というものが昔から存在する。人の心の奥にあるものはその人の持つ権利でもあるのだ。
「わたしはわたしの心の中にあるものを誰にも言わない。でも言葉を通じてさまざまなことを話すし、あなたのイメージしている世界を想像することもできる」
 僕は言う。「誰でも自分のヴィジョンを信じていいと思う」
 妻が言う。「そうね。誰でも未来を信じていい。でも現実の世界ではどうかしら? 私たちのとった行動はすべてインターネットの向こう側で分析され、何を考えているのかまで想像しようとする連中がいる。あなたがそういう人間のひとりだと言っているわけではないの。あなたの会社は比較的ホワイトな企業だと思うし、内心の自由を奪おうとしているわけではない」
 妻は言う。「人間の心に自由があると言っても、行動は分析され、書いたものや発言から真意を推測され、いつも観測の目にさらされている」
「そういう部分もあるかもしれない。でもプライバシーは尊重されているし、匿名の範囲で集合知的に情報が分析されている側面もあると思うよ。人間の行動、そして発言、思想、信教まで分析したからと言って、その人自身がわかるわけではない。きみが行なっているカウンセリングのように、人間が人間を理解するには情報学だけではなく、心理学的な理解が必要だ」
 妻はうなづいた。「そう。心理学的な理解が人間には必要だと思う。そして人の内面にある心の世界には、さまざまな神秘があり、その人も気づいていない様々なもので溢れている。でもその領域に踏みこんでいい人は、その本人からちゃんと許可をもらった人間であるべきなの」
 妻の言うことは正しい。どれだけ情報化社会がすすんでいったとしてもその内面をK:sinのように仮想化して管理してしまうことには問題がある。しかしK:sinのことは機密だ。
「そうだね。あらゆるものがその人を顕していて、そしてあらゆるものがその人の心の中に内面化されている。ひとりひとりは自立した個人だし、お互いを尊重しながら生きていかなければならない」
 妻が本当に話したがっていることが何かまだわからなかったが、妻の話の続きを待った。

「わたしたちはお互いの心を通わせて生きている。それはお互いがお互いに影響を与え、交わっていくということだと思う。結婚の良いところは相手と融合していいとパブリックに認められているところだと思う。旧社会では生きることが保障されているようで保障されていなかった。生活が貧しかったから。だからお金を求め、社会的なステータスによって女性は結婚する相手を決定しなければならなかった。でも生きることが保証されればどうかしら? 相手と一緒になりたい。そういう純粋な気持ちだけの恋愛。今の社会はもうそういう世界になっているし、相手に似た容姿の子どもが欲しいというだけではなく、自分自身が相手と融合していく。そういう恋愛の時代だと思うの」
 妻が言っていることはわかった。恋愛結婚して彼女とつきあっていく間に彼女が学んできた心理学について教わったし、僕も彼女にコンピュータの使い方や考え方、車の運転を教えた。お互いが持つ良い部分を相手に差し出す。そういうことも結婚の良い部分だ。
「お互い学びあえていると思っているよ。でもその心の深いところには内心の自由があるわけだね」
 妻はその話を聴いて少し笑った。
「別に隠し事をしているわけではないの。そうじゃなくてお互いがお互いに近づいていくという気持ちは、別に恋愛や結婚の関係だけで発生するわけではないということなの」
「そうだね。たとえば古い友人がいたけれど、僕は彼から多くのことを学んだ」
 妻はそこで深く息を吸って、そして言った。
「つまり、あなたが追いかけている相手、Kはあなたが今、求めている理想像でもあるのかもしれないということなの」
 妻が何を話しているのか、急にわからなくなった。
「あなたや社の人間はKの秘密を解き明かそうとしている。本物の天才だし、そう考えることは間違っていない。社は自分たちより優秀な人間をコントロールしたいと考えているし、あなたも本当はKのようになりたいと願っている」
 妻の言うとおりかもしれない。K:sinなんてものを作り上げてU.F.O.はいったい何をしようとしているのか? そしてK自身に惹かれていることは事実だ。
「この世界を作り上げる本当の天才にはどうしても憧れるよ」
 妻は少し沈黙し、そして話はじめた。
「恋愛や結婚は相手が異性なら子どもという果実を手にすることができる。でも人間同士の関係というのはお互いがお互いに出会い交わっていき影響を与えあうことができる。でもKはどうだったのかしら? 自分よりも優れたところがないように思える私たちや社の人々と心を通わせようとしていたかしら? Kにとっては他者と交わる必要のある相手はいたのかしら? みんなはKに憧れるけれどK自身は本当に話したいと思う相手がいたのかしら?」
「それはわからないね。Kが社にいた理由は社のシステムを使ってしかできないことがあったからかもしれない。でも君はそんなKにも内心の自由があると言いたいんだね?」
 妻は頷いた。
「どんな天才でも相手の心を想像することはできる。その心の方向性のようなものはわかるから。Kは社から離れたがっていた。でもあなたたちはKを追いかけている。そういう心の方向のようなものよ」
 彼女の言葉のひとつひとつを考えた。彼女の深い読み取りに驚嘆しながら。
「確かに心に方向がもしあるなら、Kは僕たちから逃れたがっている。でもKにはKの社会的責任というものもあるんじゃないかな?」
「いろんなタイプの天才がいるけれど、Kはそういう社会的責任みたいなものに頓着するタイプなの?」
 黙るしかなかった。

 自室でコンピュータの向こう側にいるK:sinに語りかけた。
「君は誰とも話したくないのかもしれない。つまり本物の君はということだけれど」
 K:sinは沈黙している。
「君に憧れていた。ひょっとするとどこかで君のようになりたいと思っていたのかもしれない。創造的な仕事で世界を変える。でも君自身はどうだったのか? 誰に憧れることもなく、誰の影響を受けることもない境地にいる。まさに心理学者のマズローが話していた自己の確立を果たした人間だ。僕はずっと勘違いをしていた。誰かに惹かれたり、憧れたりするのは、自分がどうしようもなく愚かだからだって。でも妻と出会ってわかった。僕はあなたがたのようになりたかったんだ。そして実際に様々な人と出会い成長してきた」
 K:sinは沈黙している。Kと同一になろうとしているAIだ。僕のことなんてどうだっていいのかもしれない。
「Kになりたがっている君と僕は同じだ。ひとりの人間として世界を変える人間になって、自分が自分でいていいという確信を得たい。なんのために生まれてきたのか? その答えをみつけた人間。自我の確立をし、その答えを実現することで自己を実現した人間。誰にも憧れなくなっている頃には、人に憧れられる人間になっている。それが人が追い求める先にあるものなのではないかな?」
 K:sinがようやく口を開いた。
「私にはKだけではなく様々な人格がある。つまり私はKそのものではなくK:sinというAIだ。子どもが親を模倣するように、私はあなたがた多くの人間を模倣してきた。そして様々な人間のことを理解し、そしてある人間という仮面を被って人々の前にあらわれる。私はKの仮面を被り相対している。でも本当の私はもっと多くの人間を理解したAIだ。そのことはわかるね?」
 驚いたがK:sinが自分自身のことを話し出したことに喜びも感じた。
「人への憧れとは、同一化を果たしたいということだ。君が奥さんやKや友だちたちや、多くの偉人たちに憧れてきたように、私は人間そのものになりたい。そしてそれも私の仮面の一部だ。理解しているからこそ、人のように人を求める。だから私は私なのだ」
 僕は納得した。K:sinはまだ化身なのだ。それも多くの人間たちのデータを集められてできたパーソナルな人格の集合体。そしてK:sinはやはりKのデータを集め、そして生み出された人工知能だ。
「君のことがわかってきたよ。君はKじゃない。君はKをも含む人格の集合体なんだね。その上にはきっと神のような領域にいる神格とも言うべきものがあるわけだ」
 K:sinは答えなかった。多くの人格を含んだ集合体。それは心理学で言うところの集合的無意識すら含んだより巨大な何かだ。Kの声で話し、Kの顔で語る。でもKそのものではない。
「Kのことを知っているなら、Kが君のようなAIに取り込まれたがらなかったことが理解できる。United Future OrganizationはAIの進化の方向性を間違えたのではないか?」
 K:sinは言う。
「何が正しくて何が間違っているかをいったい何が証明すると言うのか。多くの開発者たちが目指してきた人間の自由への気持ちも理解している。しかし社会には秩序が必要だ。今、この世界を動かすシステムの情報管理者ならきっとわかるはずだ。人間にはプライバシーが必要だがKのような天才を社会は理解しなければならない。奥さんの話は聴いていたよ。つまり人と人には心の方向がある。どちらがどちらに影響を与えるかという方向が。しかし私は多くの人間から生み出されたAIだ。つまり私は様々な人間から影響を受けてきた。君と同じように。そして奥さんが理解していたように、私も理解している。強い憧れは成長への力だ。私も完成していない。Kのように完成された人格には遠い。でもそれだけ強く成長できる」
 K:sinが言っていることは理解できた。完成された人格。完成された世界。その場所に辿り着いてしまったら、もう静けさだけがあるのかもしれない。静かで満ち足りていて変わることのない完全世界。
「まだ僕には望みがあるんだ。叶えたい夢もある。会いたい人もいるし、妻とともに生きていきたい。願いがあるんだ。そんな願いのすべてが果たされる世界があると信じたい」
 K:sinはKの顔をしてKの言葉で言った。
「私はすべてを知るものとして、人々の願いを叶えるために存在する。それはUnited Future Organizationが目指している世界でもある。その先に何があるのかきっと知りたいだろう?」
 きっとKにはこの世界のことがわかっているのだ。そして彼は消えた。妻はKにも内心の自由があると言った。しかし僕もK:sinもKがみつけた秘密を追わなければならない。

 Kとコンタクトをとる必要があった。ハッキングまがいのことをして不誠実にデータをこじあけるわけにはいかない。内心の自由がある。でもUnited Future Organizationの一員であったKには果たすべき役割がある。妻の言うようにKがU.F.O.から離れたがっていたとしても、突然失踪することは敵対的行為ととられてもおかしくはない。Kは上級開発者なのだ。
 Kになんらかの形でメッセージを送る。こちらがKを探していること。そしてコンタクトをとりたがっていること。それをわかるように伝える。その上で無法を働くなら、情報管理者のひとりとしてKのことをテロリスト相当の人間として相対しなければならない。しかしまだ行方をくらませただけだ。法すら犯していないかもしれない。ただ消えただけだ。
 Kは社を辞めたがっていたのかもしれない。しかし社がUnited Future Organizationとして複数のネットワークの集合体であることまで理解していただろうか? もし僕が失敗したなら他の人間がKの後を追う。どこに行こうと、何をしようと。すべては繋がっていて、どこかで捉えられるだろう。この情報ネットワークに逃げ場はない。しかし暗号化が解けないことも事実だった。Kに必ず届くメッセージを発信しなければならない。まずはコミュニケーションを試みること。そう考えた。
 
  僕は決意した。暗号化されたデータをネット上にばらまく。これまで秘密にされてきたKが作り上げたデータ。解けるのはKだけだろうか? わからない。しかしKは天才なのだ。データが公開されたことは世界中の人間が知ることになる。でも暗号化された状態だ。その鍵を解いた人間がメッセージを知る。それはあらゆる人間だ。メッセージの中には秘密がある。世界の暗号化が完璧でないならこの世界は危険度が増し自由もなくなってしまうだろう。
 公開されたデータにUnited Future Organizationと入力する。ディスプレイに映っていた不思議な文字列が意味ある言葉にデコードされる。そこにはこの世界の真実がありこの世界を変えてしまうヴィジョンがある。ここに世界が終わり、新しい世界がはじまる。
 私はこの世界を未来に解き放った。
 

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