短編音楽小説#38 宇多田ヒカル 『初恋』
人と話している時に隠されていたパズルのピースを見つけたような気分になることがある。本を読んでもみつからない、この現実の大切な欠片。そういうものが記憶の中にはたくさんあって、ふとした時に湧き出てくる。
13歳のバレンタインデーにチョコレートを貰った。僕はそのことを長い間忘れていたけれど、時間が経過するにつれ、それがとても大切だったことを思い出すようになった。
チョコレートを貰って嬉しかったのだと思う。でもそのチョコレートをどうすればいいかわからなかった。そんなに会話を交わしたことのない女の子の気持ちなんて想像できなかった。いったいどういう思いでそのチョコレートが僕のところにやってきたのかわからなかった。
真夜中に、僕は眠れずチョコレートをくれた女の子のことを考えた。でも僕には小学校の頃から好きだった女の子がいてどうすることもできなかった。自分が誰かを好きなことと、誰かが僕のことを好きなことは、永遠にすれ違っていてお互いの方を向かないのかもしれない。そういう気にもなった。
もちろん大学生になったり、社会人になったりして、恋人や妻から後にバレンタインデーのチョコレートを貰うようになると、中学生の時に考えていたことは間違いだったと思う。永遠にすれ違うわけじゃないと。
年齢を重ねるにつれ、僕は自分の初恋と、チョコレートをくれた彼女のことを考えるようになった。お互い報われぬ初恋を抱えて、夜空を見上げている。彼女は僕のことを考えている。そして希望を抱いている。チョコレートに込めた思いが実るかもしれないことを夢みている。そして神様に願いが届くように祈っている。
心の美しさ。そのふるえるほどの。
でも僕は13歳で、彼女の神聖な気持ちに応えらえるだけの資格がまだ備わっていない。おまけに別に好きな女の子がいて、その恋は7年間も片思いのまま時間が過ぎさる。
結果として僕は初恋の女の子に好意を打ち明けることなどなかった。そして大学生になってようやくほかの女の子のことを好きになった。だからもし中学生の時に、自分の初恋を諦めて、チョコレートをくれた彼女の方を振り返れば良かったのかもしれない。でも僕の沈黙しただけの7年間の想いも、彼女の中学生の時のバレンタインデーのチョコレートも、きっとたぶん本当の気持ちだったのだろう。
誰かが誰かのことを好きなだけでは思いは伝わらない。そしてたとえば僕の話のように思いが伝わるまで、とても長い時間がかかることもある。
時々、昔のことを思い出して、あの時どうすべきだったか考える。言葉にできなかった初恋も、思いを届けてくれた初恋も。
大抵の初恋は実らないのかもしれない。その頃、僕たちはまだ何も知らないし、相手のことがなぜ好きなのかもわからない。でも何十年も前のことなのに、初めてもらったバレンタインデーのチョコレートは、美しい思い出の味がする。