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短編音楽小説#14"Jina" [Miyuki Hatakeyama ~ Moon River]

 ジーナ・エプスタインは、河のほとりの生まれだ。とても大きい河が家のすぐ前を流れていて、彼女は昔からひとりでその向こう側へ行くことを夢見ていた。河の向こうには彼女の住む町と同じ名前の町があり、きっとジーナのような女の子もいるだろう。それでも彼女はそういうことを思い浮かべるだけで、実際にその同じ名前の町に行くことができなかった。小さな女の子にとっては、ひとりでステーションまで行って、列車に乗って橋を渡り、河を越えることはちょっとした冒険だ。そしてその河を歩いて渡ることができる橋はなかった。列車で橋を渡る以外の方法としては、車と少しばかりの通行料金が必要だった。
 母からもらっているお小遣いがあれば、河をわたることはできる。そうジーナは考えた。けれど、車に乗ることができる年齢になるまでには、まだ少し時間がある。そして家族は車を持っていなかった。だから彼女にとって同じ名前の河の向こうの町へ行くには、列車に乗って橋を渡ることだけがたったひとつの方法だった。
 ジーナはよく河辺で歌を歌った。父が死んだ時に、眠れずに泣いている彼女をなぐさめるような母の歌から、ジーナは多くのことを学んだ。人がもし悲しんだりすることがあっても、歌を歌えば心が少し楽になる。彼女は母の歌からそういうことを理解した。今では歌を歌っていた母自身も、きっと歌いながら自分自身をなぐさめていたことだろう。だから歌を歌うことはジーナにとってとても自然な行為になった。それでも、家の中で心ゆくまで歌を響かせるというわけにはいかない。だから、彼女は河原でまだ行ったことのない町の人々に向って歌い続けた。
 きっと死んだ父の魂は、辿り着いた向こうの町の女の子と一緒に笑っている。ジーナはそう思っていた。決して特別なことだとは思わなかった。彼女は充分に愛されてきたし、父がジーナひとりだけに愛を注ぐわけがない。きっと多くの貧しい子どもたちや、親なき子どもたちのために、その魂は今もどこかで多くの人に笑いかけている。彼女はそういうふうに父が死んだことを理解した。でも寂しかったから歌を歌った。
 彼女の河辺での歌を聴きにやってくる人たちは次第に増えていった。たったひとり、哀しみの中で歌っているよりは、そういうふうに集う人に歌を聴かせることは、少しも辛いことではなかった。ジーナの名前は次第に町では有名になっていった。そして繋がりは歌を通じて生まれていった。
 最初のボーイフレンドは、ちょっとした音楽家だった。彼女が歌えば彼がそっと伴奏をする。時には彼がリードすることもある。ひとりでは決して生まれることがなかったメロディが幾つも生まれた。ジーナは後になって、日記をつけておけばよかったと思った。父が死んでから、彼女の中には深い哀しみがいつもあったし、彼と音楽を響かせていれば、哀しみが消えていった。空白が埋まっていくということをジーナは学んだ。だから、どういうふうに心の傷が癒えていったか、その秘密のようなものをしっかりと思い出せれば、いつでも誰かを歌で救えるだろう。そう後で思った。
 人と人には、新しい繋がりも生まれれば、心をあずけたぶんだけ哀しみも生まれる。ジーナはそういうことをちょっとした音楽家とのささやかな日々と、別れを通じて知った。
 向こうの新しい世界へ行くよ。
 彼は、本当にふとした瞬間に、何かたあいもないことを言うようにそういうことを言った。もちろん、彼がそう言う理由はわかっていた。向こうにしか、本当に音楽で成功する世界はないし、自分たちの町でひそやかに暮らしていても、ただふつうに暮らしているだけに過ぎない。だから、彼が町を出て、自分がいつか素晴らしい音楽家になることを願う気持ちは彼女にだって、まったくわからないという話ではなかった。ジーナだって、いつか父の魂があるだろう町へ行ってみたかった。そして多くの気持ちを捧げてきた町がどんなところか夢に思っていた。
 けれどジーナには母がいたし、自分だけ勝手に家を飛び出してしまうというわけにはいかなかった。母はジーナを必要としていた。そして彼女だって母を必要としていた。だから、彼をステーションまで見送った後は、彼女は泣きながら河辺でいつものように歌を歌った。
 憧れの歌姫が歌う歌の意味が、少し理解できたような気がする。だからこそ彼女の歌は、最初の頃よりも深まっていった。
 やがていくつもの男たちと、彼女は出会っては別れた。出会いの時には、喜びの歌がいつもよりも響いたし、別れの時には、悲しみの歌が響いた。河はいくつもの彼女の歌をずっと聴いてくれていた。河だけがいつもそばにあった。もちろん水はひとところに留まらず流れ続ける。その表情は一瞬として同じ顔をしておらず、ゆるやかに流れ続けるだけだ。でも、ジーナは思った。彼女の思いを受け止めてくれているのはとても大きな河だ。だから、その向こうへ思いを歌ったぶんだけ、深い願いのようなものは、きっとどこかへ届いている。
 母が亡くなった時にだけ、ジーナは歌を歌わなかった。いつも男たちを歌で見送ってきた。歌はそういう男たちのためにあった。母から受け継いだ歌で彼女を見送りたくはなかった。彼女は、はじめて悲しみをそのままに受け止めた。何かひとつの歌に母のすべてを込めることはできなかった。
 今、自分が生きている。そのことが母にできるたったひとつの恩返しだと思った。ジーナは母がいつもしてくれていたことを、自分も同じようにしようと思った。それは朝早く起きて朝食を作ることだったり、彼女がよく着るシャツにアイロンをかけることだった。そういうことをこれからはひとりで行っていかなければならないと感じた。
 でも、やっぱりひとりになってしまったことはとても哀しい。だから、いつか自分のその宿り木にそっとあらわれるだろう人のことを、ずっと待っていた。そして愛について、彼女は歌い続けた。
 河原では、ジーナはすっと自分の世界へ入りこむことができた。失われてしまったことはたくさんある。でも、きっと向こうの町では、失われた人々のすべてが、かつてのままに存在していて、彼女の歌に耳を澄ませてくれている。ずっとそう信じていた。
 ある日、ジーナは手紙を受けとった。それはちょっとした音楽家からの手紙だった。彼は、今ではちゃんとした音楽家になって、向こうの世界でそのささやかな個人的な音楽を続けていた。
 彼の音楽は、向こうの町からの便りのように響いていた。だから、彼女はその本物の手紙が自分の前にあらわれてはじめて、ずっと望んでいたことをしっかりと理解した。
 彼のいくつかの音楽はとても温かみがあるものだった。彼が向こうへ行っても彼のままであることを、だからジーナは誇りに思っていた。
 今度、町へ帰ることにした。会えないか? 手紙の内容は概ね内容だけを読めばそういうことだった。
 彼がやってくる。ジーナの心は弾んだ。けれど、彼がとても今、傷ついていることになんとなく気づいていた。向こうの暮らしは優雅なだけではなく、とても厳しいことがあり、様々な出来事が彼と彼の音楽に向って壁のように存在している。そう感じた。そしてそういう壁や傷つきのことを思うと、彼女がこれまで心をこめてきた歌だけでは、彼の心を救うには足りないのではないかと思ったのだ。
 だから迷い続けた。そして迷えば迷うほど、自分が深い森の中で彷徨っているというだけだと思った。
 彼女が気づいたことは、ただ心を込めて歌うことだけだった。いつもそういうふうにしてきたし、きっとこれからもそうだ。しばらくすると、やっと迷いのようなものはなくなった。
 だから、彼を迎えにいくステーションへの道の途中でも、自分というものを見失うことはなかった。彼が連れていってくれたこの町のいちばん上等な店のディナーを食べても、少しも心は揺さぶられなかった。
 彼女が望んでいることと、彼が望んでいることは同じだ。ジーナは確信していた。
 だから、男女の手順のようなものは彼女にとってはただ見せかけの形式以外の何物でもなかった。
 彼女と、かつてちょっとした音楽家だった男は、真夜中をすぎて、ようやく河辺に辿り着いた。彼女の家までは5分とかからない距離にある。けれど、ジーナにとっても、彼にとってもとても大切なひとつの出来事は歌と音楽を結びつけることだった。言葉という言葉を必要としない、心の共鳴。だから、河原で昔のように歌いはじめると、彼は自分の楽器をそっと取り出した。
 時刻は真夜中だったから、彼女と彼はとても静かに心を通わせた。男はたったひとり、河の向こうからジーナのために帰ってきた人だった。彼女はそういうことを理解していた。だから、彼女は、そのはじまりの言葉を歌った。
「ずっとあなたのために歌ってきた」
 ジーナが歌うと、彼女の元を去っていった人々が、河辺に一同に集まり、人と人の結びつきのはじまりを祝福してくれているような気がした。真夜中なのにとても光が溢れている。星と星の間には、とてつもない距離があるけれど、ここからだとその距離はとても小さい。手をずっと天空へ捧げて歌うと、その向こうの無数の星が自分の手で掴めそうだ。河面はとても磨かれた鏡のように夜空を映し出し、世界の夜という夜に向けてささやかな光を放っている。
 ずっと河は、彼女と人々を隔てている、とても深い河だった。でも、すべての人はきっと同じようにその河辺にいて、まったく違う心を、少しでも近づけるべくかよわせている。
 音楽も言葉も、あるいはとても深い繋がりも、どこまで心を繋げさせることができるかわからない。
 でも、彼女は信じている。きっと心に繋がりがあるのなら、その河はいつかわたることができる。例えそれが月の河のように水のない深いものだったとしても。

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