短編音楽小説#29 Erik Satie – Gymnopédie No. 1
エリック・サティのことを知っていますか?
エリック・サティは他の多くの天才と同じように音楽学校で反抗的だった。パリ音楽院在学中には指導教授から才能がないと言われ、2年半ぐらいで退学になった。その話を知ってほっとした。僕も音楽大学で才能がないと言われる落ちこぼれだったから。でもエリック・サティは1888年にジムノペディという奇跡のような音楽を作曲した。ある人は、サティのジムノペディのことを「人類が生みえたことを神に誇ってもよいほどの傑作」と言った。僕にはそんな奇跡のような曲は生み出せない。それがサティと僕の違いだ。
サティが演奏したみたいにジムノペディを演奏してみる。3/4拍子のゆったりとした演奏。第1番の演奏の指示は「ゆっくりと苦しみをもって」 (Lent et douloureux)。この音楽には繰り返される日常の苦しみがある。そう感じる。
毎日、駅の階段を登る。同じ停車位置から同じ時刻の電車に乗る。その電車にはいつも申し合わせたように同じ人々が乗っている。
ある娘はいつも満員電子の中でiPadで絵を描いている。ある男はいつもスマートフォンでアプリのゲームをしている。一緒の空間にいても、それぞれの世界の中にいる。みんな息苦しそうだ。朝の通勤ラッシュ時の電車はいつもそうだ。
僕たちの毎日を映像を早送りするみたいにしたら、少しは楽になるだろうか? でもサティは言う。「ゆっくりと苦しみをもって」
ジムノペディを聴いていると、誰かの苦しみが伝わってくるようで癒される。僕はこの曲が好きだ。
音楽大学を卒業してから、もちろんピアニストになれるわけもなかったのでピアノの調律師になった。ちゃんと音楽系の会社に属していて、お客様から依頼を受け、会社が貸してくれる車で自宅まで伺う。そしてインターフォンを押す。
決まった挨拶を交わして、ピアノを1時間ほど調律する。お客様のピアノはたいてい音が少し狂っていて完全には正確な音がでない。だから家庭にあるそういうピアノの音をひとつひとつチューニングして、本来のピアノの音に戻す。その後でピアノを演奏する。
そういう時にはジムノペディなんて弾かない。ショパンとか、久石穣とか、もっと派手で人を惹きつける演奏をする。元よりもずっと美しいピアノの音になったと、お客様に喜んでもらいたいから。
ピアノがある家庭はたいてい少し裕福だ。ピアノは高価だし、ピアノを演奏するなんて生きていくこととは関係が少ない。でも経済的なゆとりがあるから、ピアノが家にある。
ピアノの調律の後で、ショパンやドビュッシーを演奏すると、お客様はたいてい「なんでピアニストにならなかったんだい?」という話をする。
そういう時に話す身の上話のパターンは3通りぐらいあって、お客様のタイプにあわせてつかいわけている。
世間のしんどさを充分知っている成り上がったタイプの家庭では「音楽では生きていくことは難しいんです」という話をする。そう言うとたいていは同情してもらえる。
元々、裕福そうな家の高級なお宅にお邪魔する時は、自分の才能のなさについて話す。そういう裕福な家でも、本当の音楽を聴きわける耳を持つ人はあまりいないから。だから僕の才能のなさに気づく人はいない。でも「厳しい世界なんですね」というような顔をされる。
でも時々、君の演奏をもっと聴きたいと言ってくれる人がいる。そういう人が贔屓の客になるので、僕は調律が終わった後のピアノでたっぷり演奏を聴かせる。ちょっとしたサービスみたいなものだ。
そして「音楽の先生と相性が悪かったんです」という話をする。
でもある時、ジムノペディを弾いてという女の子がいた。エリック・サティを知っているなんてずいぶんと変わった女の子だと思ったけれど、僕はジムノペディの1番を弾いた。
僕はゆっくりと指を動かした。スローモーションで撮影されたビデオみたいに。
ゆったりと河の水が流れていくように演奏した。繰り返される日常。でもそこには太陽が輝いていて、風が吹いている。緑の葉が揺れている。苦しみの中にも光がある。
女の子は、ただじっとその演奏を聴いている。いつもピアノの練習をしているのだろう。どこかでピアノを習っているのかもしれない。でもそのレッスンが楽しいものなのか、苦しいものなのかというのは、ちょっとわからなかった。でも僕の演奏は気に入ってくれたみたいだった。
「ピアノっていろんな表情をするよね」
女の子はそう言った。
「わかるんだね」
僕は言った。
「あなたのサティ、好きよ。でも少しゆっくりすぎない?」
僕は「これぐらいの方が好みなんだよ」と言った。
「あなたはわたしのピアノをいつも良い音にしてくれる。そして演奏の音が深い」
そう女の子は言った。「あなたは素敵だけれど、でもきっと音楽家として生きていくには何かが欠けているのね」
「何かが欠けている?」
「そう感じるの」
女の子が言った言葉の意味はわからなかった。でも僕にはきっと何かが欠けているのだろう。僕のサティの演奏にも。
「わたしに弾かせて」
そう言って、女の子は僕のとなりに座り、サティのジムノペディをアレンジしはじめた。演奏のスピードは速いし、メロディの原型はとどめていない。でも楽しそうな演奏だった。それは彼女の人生がまだそういうライフステージにあるということなのだろう。
ピアノは正直だ。演奏する者を写す鏡でもある。
僕は女の子のその演奏にあわせて伴奏した。少しだけ子どもの頃のことを思い出せた気がした。
サティは何かインスピレーションがあって、そしてジムノペディを作曲した。僕にはまだ何かが掴めていない。でも毎日はあっという間に時間がすぎてしまう。
サティは自分自身の音楽的傾向を「家具の音楽」と呼んでいたそうだ。実際に「家具の音楽」という作品はある。酒場で音楽を演奏していた彼が、酒場で酒を飲み、会話を楽しむ人々の邪魔にならない音楽を志向するようになったという話だ。
その音楽には静かな革命があった。演奏する者が主役ではなく、その場所にいる者が主役なのだ。音楽は背景としてそこにある。誰にも意識されないバック・グラウンド・ミュージック。そういう音楽を発見したサティは天才だ。
僕はその静かな機能美が好きだった。才能がないと言われたサティが酒場の人々のために生み出した音楽。静けさがそこにはあった。現代音楽はサティからはじまったと言っても過言ではない。スーパー・マーケットで流れるイージーリスニング。あれはサティが生み出したものだ。
人々は無音の空間には耐えられない。そこに主張の強すぎない美しい音楽が流れているだけで、世界は変わる。
サティは静かに革命をおこした。そんなサティの音楽を僕は演奏しているだけだ。
「何かが欠けているのよ」
急に女の子の言葉が思い出されて、ちょっと驚いたが自分は自分だと言いきかせる。
若い頃にあった情熱。そして美しいピアノへの思い。
でも僕は今のままで充分に生きていける。
ミュージシャンになる必要なんてない。
毎日の繰り返しは苦しい。でも心にサティのジムノペディを浮かばせるだけで、救われる。
僕はお客様のためにピアノを調律し、そしてサービスで演奏をする。
家に帰ったら、ピアノなんて触らない。いつもインターネットで気をまぎらわせている。
でも時々、音楽を聴く。昔、あった夢がそういう時に頭をかすめる。
ピアニストになりたかった。そして自分で作曲し、美しい曲を演奏したかった。
まだその夢が終わっていない。
サティが起こした静かな音楽の革命。僕にも何かができたら。
音楽の主役は、今や人々のものだ。自分が主役になることなんてできない。
それでも僕は自分のために演奏する。
静かな曲だ。ジムノペディのようなゆっくりとした曲。でも真似ではない。自分の心をおちつかせ、自分が自分だった頃に戻れるような曲。でもそれは即興の欠片で、未だちゃんとした形にならない。
女の子は僕に言った。「音楽家になるには何かが欠けているのよ」
もちろん何かが欠けている。でも誰だって、何かが欠けている。
僕は即興で演奏した曲をそのままにしておく。
仕事が好きかと尋ねられたら、僕は好きな方だと答える。ピアノを触っていられるし、お客様とのコミュニケーション能力は必要だけれど、口下手でもピアノの演奏さえうまくいけばなんとかなる。良い音を響かせ、音楽でお客様の心を掴む。プロのピアニストではないけれど、そういうサービスで贔屓の客ができる。
それほど収入が多いわけではないけれど、悪くはない生活を維持できる。世間にはピアノを調律して欲しいという人はまだまだ沢山いるし、どんなピアノでも調律することができる自信もついた。
でも何かが欠けている。音楽で生きていると言って良い人生。でもこれでよかったのだろうか?
時々、趣味でYoutubeにピアノ演奏の動画をアップする。はやりのポップミュージックをアレンジして演奏してみせる動画というやつだ。最近は再生数も増えてきた。そういうふうにインターネットを楽しんでもいる。
サティのジムノペディの演奏だけはインターネットにアップロードしない。僕の演奏はまだ未完成だ。繰り返される日常のための音楽。そんな自分が本当にやりたいことを、やすやすとインターネットにアップしたりして、いったい何になるだろう? 本当の夢はもっとワインのように熟成しなければならない。
インターネットでも日常でも、もう少し派手で親しみのある音楽が求められている。だから僕はショパンやドビュッシーやラヴェルを演奏する。J-POPも演奏する。でも自分のオリジナルは演奏しない。
それでも僕が音楽を通じてこの社会と関わっていることに違いはない。
美しい音楽に心を震わせたもの同士が、いっとき心を通わせる。現実で、そしてインターネットで。僕はそれを悲しいことだとは思わない。そして音楽はいつかサティが生み出したようなBGMになる。
静かな空間でジムノペディだけが響き続けている。僕はその音楽を聴き、僕の中にある欠けているものについて考える。
何が欠けているか、いつかわかる時がくるだろうか? 人と人を結びつける音楽のことをもっと知りたい。そしていつかサティのように人々の日常の中に溶けこみたい。ただ聴いているだけで、心癒される音楽。
サティは人々のために演奏した。自分のためではなく。僕がそのことに気づいたのはずいぶん後のことだった。
いつか人々のために音楽を生み出せたら。
ピアノの前に向かう。あの女の子のことを思いうかべる。C#から演奏を開始する。やさしく弾く。サティのように、自分だけの音楽をみつけようとする。
なめらかに。十本の指を全部つかって、形をみつけるように。美しい響きが伝わるように。
即興演奏の中に、主旋律をみつけ、テーマを探す。
形にならない思いが、いつかちゃんと形になるまで。
風が吹いたような気がする。感覚が敏感に鋭利になる。僕の心がピアノと同化する。
ピアノから澄んだ青が聴こえる。透明なようで透明でない、透き通った青色。
思い出したのは初恋のことだ。ずっと好きな女の子がいて、でも何も話せなかった。もしそんな時にピアノで何かを伝えることができたなら、何かが変わっただろうか?
言葉では伝えられない気持ちを演奏する。
僕はサティの気持ちを知らないけれど、サティもきっと何かの想いをもってピアノを演奏していたはずだ。
音楽が人生の背景になるまで。
そしてピアノの演奏がはじまる。まるで新しく人生がはじまるみたいに。そして君に音楽で語りかける。