中学校ぐらいの時。初恋の人の後ろの席になったことがある。僕はどきどきしながら、初恋の人のとなりに座るS山と話をしていた。
S山は変わった奴で、1980年代という時代なのに、プログラミングを中学生なのにしていた。
その時代はコンピュータを触るなんて、オタクだみたいな風潮が強く、まだ世間一般に価値が認められていなかった。
そういう風潮にも関わらず、S山はプログラミングのことを楽しそうに話していた。
僕はサッカー部とか、バンドのこととかに夢中で、その頃はコンピュータのことなんて、あまり詳しくなかった。
子どもの頃に家にあったMSXのコンピュータで、BASICのプログラムを少し触ったことがある程度だった。
まだその頃は英語教育が小学校ではじまっていなかったから、意味のわからない英単語を片手にプログラミングコードを入力していた。
でも、結局、そういうプログラミングをちゃんと理解するようになるのは、ずっと後のことになる。
今でこそコンピュータに触れて、コードが書けるなんて、格好が良いと思われる風潮にもなったけれど、その頃はサッカー部のほうがモテた。
まだ中学生だったんだ。初恋の人とろくに話すこともできなかった。
でもS山みたいに、中学生ぐらいからプログラミングができていると、今なら初恋の人がふりむいてくれるなんてこともあるのかもしれない。
まぁ僕は僕で、ロックにあけくれたり、サッカー部で走ったり、真夜中に小説を読んだりしていた青春を後悔していない。
でも人生の宿題みたいなもので、S山が話していたプログラミングというものをちゃんと理解しなければと思うようになった。
ひきこもりとか、オタクとか、マスコミやメディアなんかで馬鹿にされている人物像と、実際の未来は違う。何年間かたとえ家にひきこもったとしても、後に評価されるソフトウェアを開発できるようになった人間の方が成功者だと思う。つまり、メディアが言うライフスタイルなんて、メディアが作り出した幻想にすぎない。
人は自分がわからない世界のことを恐れる。自分に理解不能なことも。でも子どもたちだけのものだったゲーム文化は今では一般的なものになったし、漫画やアニメだって世界的に広がった。その時、その時、自分にとって大切なものを、人の目や大人の目を気にせずに価値あると信じることが大切なのだ。
ロックミュージックもかつてはメジャーな音楽ではなく、大人たちから眉をひそめられる音楽だった。それが世間的に格好が良いと言われるようになるのは、ずっと後のことだ。迫害されてきた人たちが、音楽とともに、ずっと音楽という文化を育ててきた。
同じようにコンピュータ文化だって、アンダーグラウンドな世界からオーバーグラウンドな文化になってきた部分がある。
コロナの時。みんな自宅にひきこもってオンラインで生活をした。そういうことが間違っていると言ってきたけれど、みんながひきこもったのだ。
元々、ひきこもっていた人の方が、その時、はやくコロナ下の生活に適応したに違いない。進化論とはそういうことなのだ。ひきこもっても生活できる人が、コロナ下では勝者だ。つまり、適した者なのだ。それがダーウィンのいう適者生存である。
そういう生活様式みたいなものが、技術によって、または環境の変化によって、変わりうることを理解するべきだし、様々なライフスタイルが多様性として認められるべきだと思う。
みんながみんな同じように生活するということがおかしかった。人には個性があるし、その自分の個性にあうライフスタイルをみつけていく。そういうことがまた新しい文化を生み出すのだ。ひきこもりのプログラマーたちの文化が、今、世界を動かしているように。
ユネスコは2001年に文化的多様性に関する世界宣言という素晴らしい文書を発表している。画一的なライフスタイルよりも、人々の文化が多様である時に、新しい文化も生まれるし、人類の文明が残っていくという話だ。
僕が中学生の時には、みんながみんな丸坊主にして、きちっと揃っていないとダメみたいな教育が盛んだった。そんな教育が間違っていたと、ユネスコも言っている。
子どもたちは自分自身の価値を生み出していくし、そんな自分たちのことをお互いに話ながら、新しい世界を生み出していく。あるいはインターネット上でもさまざまな人が交流して、新しい生活様式を生み出している。
僕たちは揃えようとしても揃わない。それぞれの個性を持っている。その自分自身を精一杯、輝かせるということの大切さを、昔のことを思い出したりしながら思う。みんな元気にしているかな?