大学生だった頃、美味しいご飯を食べることは難しかった。音楽や映画もそうだけれど、本当に素晴らしいものに出会うことは、簡単ではない。
僕はファッションセンスはあまりないのだけれど、たぶんどんなものであれ、経験を積み重ねさえすればたいていのことは身につくかもしれないと思う。でも経験を積み重ねることが難しい。
ただの大学生から雑誌編集者として勤務するようになり、取材で関西を歩きまわった。働く女性を取材するという連載コラムの企画で、関西の働くさまざまな女性にアポイントメントをとり、撮影をして取材をする。そういう仕事をした。その時、関西中をバイクで走り、歩きまわった。街中を歩きまわり、関西という空間を覚えていった。
でも、その後で仕事を辞めて地味な事務の仕事を転々としながら、ひとりで小説を書いた。
経験と知識があわさったのは、妻と出会った頃だった。取材でどれだけいろんな女性に出会っても、美味しい店を探しても、出会わなかった素敵な店に、妻となら訪れることができた。
雑誌編集の仕事を辞めてから、だいたい7年ぐらい孤独だった。その時期には美味しいものを食べることなんて考えもしなかった。車であてもなくドライブしながら、幸せそうに買い物をするカップルを呪っていた。
でも自分が恋人同士になり、夫婦になるにつれて、凄くわかることがあった。
美味しいものを普段、食べなれていると美味しいものも美味しく感じなくなる。それと同じようにひとりであることの孤独をあじあわないと、一生、ひとりの女性を愛するなんて決心はできない。孤独を深く感じたからこそ、妻に出会った時、僕には何が人生の幸せかわかった。
妻と出会ってから、いつもできるだけ美味しいものを食べるようにしている。もちろんお金がない時には、コンビニエンスストアやマクドなんかですますこともある。でもなんとかやっていけるなという目処がつくと、ふたりで美味しい食事を食べにいく。
この美味しいご飯というものが凄く難しい。どれだけネット上で評判がよくても、まぁまぁな店はある。そしてネット上の評価に関わらず、本当に美味しい店もある。
いつも美味しい店はあるし、ちょっと商売よりだなと思う店もある。インターネットのレビューで、ある程度まで、事前の評判はわかる。
雑誌の編集の仕事で、映画の紹介記事を書いたりもしていたから、実際の映画の出来を、そのまま文章で伝えることは難しいことはわかっていた。仕事だったりすると、やはり良い点をクローズアップし、人に注目されるようにしなければならないからだ。
でも働く側の人間としては、本当に面白い映画を見つけよう。そしてその映画を広げよう。少なくともそう思っていた。
才能。本物の才能を見つける。僕はそういう気持ちで働いていた。
でも結局、僕が本当に出会いたかったのは、妻であり、妻の才能なのだと思う。
美味しいご飯が食べられる店をみつけると、誇らしい気持ちになる。それはかつて原始人だった時の、男と女の役割分担の名残りかもしれない。
いつも美味しいご飯に辿り着けるわけではないから、結局は事前に情報だけで未来を予測するなんて、難しいのだろう。
でも経験に経験を重ね、そして運が良く、注意深くなれば、そこに美味しいご飯は存在する。美しい音楽も、面白い映画も。
しかし、何より大切なのは、素晴らしい時間をともにする相手だ。
なんのために生きているのだろう? 若い時にはそういうことを何度も思った。でも若い時から経験を積み重ねて、やがて運命の人と出会う。もしそういうことのために若い時の暗闇があるのだとしたら、それは仕方がないことだと思いませんか?