いろんなことに適応できないけれど、才能があるという人間はいる。
僕がそういう人間かはわからないけれど、本当にこだわりが強くて適応できないことは多い。
いちばん古い記憶では、靴下を履くことが嫌いだった。
保育所のことだ。とにかく裸足で歩きまわることが好きで、靴下をすぐに脱いでいたような記憶がある。
今も、普段の靴はビーチサンダルとか、クロックスとか、裸足ではける靴を選んで履いている。本当に靴下が嫌いなのだ。
こういう個人的なこだわりが積み重なって自分という人間を形成している。
妻はそういうひとつひとつの僕のこだわりを理解してくれているわけです。
自分が相手のことを理解するよりも、理解してもらっていることの方が多いなぁと思います。
確かエチオピア出身のランナーで裸足で長距離を走ったランナーがいたらしい。僕の小学生とか、中学生の友だちにそんなランナーのことを知っている人なんていないと思うんだけれど、なぜかそのランナーにちなんだあだ名をつけられた。
僕の幼少期の靴下に対する苦手意識と、そのランナーを結びつけているわけでもないだろうけれど、そういうあだ名をつけたのだから、ある意味凄いと思う。
もちろんあだ名なんて、からかい半分、親しみ半分でつけられるものだから、そんなに嬉しいものではない。
でも、ふと思い出すとこのあだ名にある背景と、個人的な思い出が結びついて、うまいことあだ名をつけたものだなと思わずふりかえってしまう。
個人的には○○っちと、女の子から呼ばれていた頃があだ名では嬉しかった記憶がある。嬉しい、嬉しくないは相手によるものかもしれない。
最近はあだ名で呼ばれなくなったから、それはそれで嬉しいですけれどね。
なにか格好の良い呼び方で呼ばれれば、人生が2倍ぐらい楽しいものになる気がするけれど、どうなんでしょう?
坂本龍一さんなんて教授なんて呼ばれ方をしていて格好が良い。でもそれは彼がとても勉強家だったことと関係があるのだろう。自伝を読んだけれど、凄く深いところまで勉強をしていた。そういうところから、ついたあだ名だと思うから、羨ましい。
ルックスも関係があるかもしれないですね。本当に坂本龍一さんは教授っぽいし。
僕なんてランナーでもなんでもないのに、裸足が好きだからですよ。
ちょっと悲しいよね。
スティーヴ・ジョブズも裸足で仕事をしていたらしい。確か、彼の人の自伝ではバイトでアタリ社に勤務していた時、ずっと裸足だったという記述があった。
妻ともよく話すけれど、この世界に適応できていなくて、学校に行けなくて、でも独特の才能を持っている人というのは数多く存在する。それはこの世界がまだ完璧ではなくて、そして新しい才能が花開く可能性がまだあることを指していると思う。
自宅で仕事をする人も増えてきたし、これまでの社会にすんなり適応できない人でも才能を発揮する。
そういう世界になっていくんじゃないかな?
裸足で、ビーチサンダルを履いて、ギターを担いでアメリカンなバイクに乗っていた10代の終わりのことを思い出すと、なかなかワイルドだったなと思う。
もうバイクには乗らなくなったけれど、ビーチサンダルで左足でギアチェンジをしていた頃を思い出すと、あの頃はあの頃で良かったと思うんですよね。
冬でもビーチサンダルだった。
今は裸足で履けるおしゃれな靴が増えてきて、今度はいつか世界を裸足でかけまわれたらなんて思います。
家のMacを触る時はいつも裸足。その向こうには、大きな世界がまっているのかもしれない。