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夫婦のソーシャルディスタンス

日本の哲学で、間(ま)というものがあると思う。
つまり、あるものとあるものの間にある空間や時間のことだ。
僕はこれが今、とても大切なんじゃないかと思っている。
ソーシャルディスタンスの延長線上として。

僕たち夫婦は、それぞれの部屋みたいなものがあり、最近はたいていはそれぞれの部屋にそれぞれがいるということが多い。
もちろん、最初はそうではなかったのだけれど、徐々にお互いの生活空間を部屋のようなものでわけはじめているわけです。
でもそこから今はどうかな? と思って、妻の部屋に行くわけです。猫みたいに。
そしてそういう時に、相手をしてくれなくてすごすごと自分の部屋に戻ったり、相手をしてくれる時がある。
なんだかこちらも結婚して何年も経過しているから、特別な用事があるわけではない。
なんとなくという感じで妻の部屋へ行くわけです。
そしてすごすごと帰る。

同じように妻がこちらの部屋に来る時もある。
まるで子ども時代に友だちの家に遊びに行ったり、遊びに来たりという感じで。

もちろん友だちの家との間には距離があったわけだけれど、その距離を自転車をこいでかけていった。
今は、ほんの数歩、歩くだけで妻の部屋へ繋がる。
その間に”ま”があるわけです。

人間でも、動物でも、こういう間がある。
でも、宗教や社会的常識として、こういう”間”の距離を上のものが決めて良いというようになっていったんでしょうね。
あるいはふるまい方が決められていった。
本当は行きたくないのに行かなければならない、学校や会社みたいなところで。

自然状態にある人間や動物には、その心の気持ちとしての間がある。
いつもその間の距離が近ければいいけれど、人や動物というのはいつもその距離を縮められるわけではない。

ミヒャエル・エンデという作家が資本主義の問題点として、お金に売り渡してはいけないものを売り渡していることが資本主義の問題という話をしている。
いろんなものがお金を介している。
男女というものも、本当はこういうふうにお互いに間があるものだし、友人関係もそうだ。
そしてその距離は心の距離でもある。

そういう間を考えず、すべての人間が同じ理想にたどりつくべきというようなことが本当に問題だと僕は思うんです。
30人ぐらいの教室に集められて、その30人が心をあわせる。
凄く難しいことだし、だから心が通じた瞬間には、奇跡のようなものがあると思う。
優秀な先生の元では、そういう学級も生まれる。
バンドも一緒です。お互いの距離がなくなって、同じ瞬間や感覚を味わえる。
いいバンドはそういうものです。それは奇跡です。
お互いが違うものであるのに、同じものをみることができる。
恋愛もそうです。
そこには奇跡がある。

でも、こういう奇跡を日常にしてしまおうとするところに、やはり暴力というものはあると思うんです。
それぞれの人間性を認めるなら、認めればこそ、同じ時間や空間を共有し、心を重ねることの奇跡がわかると思います。

性風俗みたいなところで、あるいは仕事で、お金のために自分を売り渡す。
それはとても問題があるのだと思う。
そういう自己みたいなものを売り渡してはならない。それは本当に大切なことです。

奇跡のような瞬間にしかないような愛を重ねて、だんだんお互いがお互いに似てくる。
そういう本当の愛があります。

働く時に、上の人間が、そういう間みたいなものを気にして、しっかりとチームを作る。
ぜんぶ自分のコピーみたいに仕事のやり方を押し付けるのではなく、それぞれの呼吸みたいなものを気にしながら。
僕たちは機械ではないし、マニュアルにそうようにただ動く存在ではない。
本当の上というものは、ちゃんとそれぞれを認めるものだと思うのです。
でもそういうことがわかっているリーダーは本当に少ない。
だから工業化社会は人を部品のように扱う。それが大きな問題だと思う。

もちろん上の人間が理想を描いて、その理想をみんなが共有できればいい。
でもそれは奇跡みたいなことなんです。

理想へむけて無理矢理、お互いを近づけすぎるところに、いろんな現代の問題はある気がするなと僕は思います。
今日は、妻が友だちと電話で話すというので、こういう文章を書いています。
もう結婚して何年も経つのに、そんなふうにお互いの時間を気にしながら生きている。
お互いがお互いの空間や時間を気にする。
そういうものなんだよな、って個人的には思います。