子どもの頃、親友と新撰組と維新派について話をしたことがある。
親友は新撰組派だった。幕府側だったのだ。これになんとも悲しい気持ちになったことを覚えている。
成長するにあたって、僕はどうやら今の世界よりも、未来、世界が変わることを信じる側だった。
RADIOHEADがとても好きだし、APPLEが好きだし、テクノミュージックを愛好していたし。
仏教系の大学で学んでいた時は、まだインターネットもなかったし、みんなアナログだったのだけれど、21世紀に入るぐらいから、少しずつ、そういうふうに仲間とは違うと思うようになってきた。
少し、悲しい話だ。
次の時代を志向する人々は、昔は本当に少なくて、僕の信奉するアルビン・トフラーなんて、テクノ界隈のゴットファーザーみたいな人々も信奉する学者だ。ただまわりの人は知らなかった。
でも最近の若い人たちはUVERWORLDとかも聴いているし、野崎まどとかも読んでいるし、少しずつ未来は今とは違う別の世界なんだって思う人も増えているのかもしれない。
あるいは一時期の僕のように、未来をそう感じながらも、現実の前で諦めていたのかもしれない。
今の時代を時代劇にはしてしまいたくない。
僕たちは好きなものが違うだけ。望んでいる世界の方向性が違うだけ。
それで喧嘩をするようなことはしなくてもいいんじゃないかって思う。
WINDOWSとMacが両方ある世界。僕はそういうことを素晴らしいと思っている。
伊勢にお参りにも行くし、日本の各地で伝統文化として残っている和食が本当に美味しいと思っている。
日本の進化論学者の人は、進化というのは棲み分けなんだよと言っている。
僕はその考え方が好きだ。
音楽でもそれぞれの楽器を極めようとする人が出会って、音楽が生まれる。
それを大きく社会にあてはめれば、それぞれの人間がそれぞれのものを持っているということになる。
そしてそれを交換することができる。
伝統料理を食べたら、日本料理って美味しいですねって正直に思う。
フランス料理を食べたら、フランス料理って美味しいですねって思う。
それぞれの国の料理が美味しい。
なんだか食いしん坊みたいだけれど、本当に美味しいものは美味しいのだ。
そして新しい料理も。
僕はたまたま文章や思想としては、そういう新しいものの側にいる、新しいもの好きなだけなんだ。
古いものも嫌いじゃない。
それらの価値観をお互いがお互いに押しつけようとしたり、イニシアチブをとろうとしたりする時に問題はうまれる。
これはある程度、人間だからしかたないことかもしれない。
でも、それで相手を殺したりしてしまいたくない。
それが戦争状態なんだと思う。
お互いの価値観を交換する。お互いの価値観を味わう。
料理みたいに。音楽みたいに。
文章にだってそういう可能性があっていいと思いませんか?
著作『awake』を今日、読み直して僕は何を語りたかったのか? より理解できた。
それは確かに多様性みたいなことだし、次の未来の話だし、いろいろな話だ。
本を書くというのは、そういうふうに自分以外の誰かに文章で語ることだと思う。
実際に目の前にいるとうまく話せない。
だから書いて語る。
読んでもらえれば幸いです。
本当に。