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魂をシェアする

音楽の素晴らしさについてはいくら語っても足りないところがある。
音楽を深く掘るようになったのは中学生ぐらいからだった。
音楽の時間が好きで、もっとクラッシックとか学びたかったけれど、クラスメイトは音楽の先生を嫌っていた。

ご飯屋さんとかでも、庶民的なラーメンとか中華料理とかを好む人と、フレンチとかイタリアンを好む人とか、和食だよという人とか、いろいろいると思う。庶民文化というものがある。
大学時代のバンド仲間の店の趣味も、庶民的で、僕もわりとそういうところでご飯を食べていた。
でも、もっと子どもの頃から美味しいものを食べていてもよかったんじゃないかと今では思う。

話を音楽に戻す。
クラッシックを聴くようなセンスは、クラスメートに嫌われていた。
食事も、庶民的で誰でも食べられるものが好まれた。

フレンチとか和食の中にある貴族性というものを、今ではどう理解するべきだろう?
あるいはクラッシックや一部の文学の中にある貴族性を。

文化の中に、人を選り分ける装置でもあるのかもしれないと思う。
そして高いレベルの文化を貴族たちがひとりじめして、庶民はいつまでも庶民でいろというように作られているようだ。
ライフスタイルを作り上げることも文化だし、人は自分のセンスに基づいてもっと行動してもいいと思う。

でも、見えない力がある。ある層に生まれたら、ある層で居続けなければならないというような見えない力が。
そういう時は、音楽を聴き続ければいいと思う。
但し、より素晴らしい音楽を見つけ続けなければならない。自分のセンスで。

僕は音楽を子どもの頃から聴き続けた。そして友だちたちが聴く音楽をシェアしてもらった。
様々な音楽を聴き、様々な人のことについて理解を深めていった。

今でも、ある人とある音楽が結びついて聴こえる時がある。
そして音楽を聴きながら友人のことを思い出す。

文学とか音楽とか、映画とかもそうだけれど、その人がコミットしているものが共有されることを好む。
臨床の現場では、子どもたちと打ち解ける時に、やはりその子どもたちが好きな漫画やアニメの話から仲良くなることがあるらしい。

昔、グランジやパンクミュージックが好きだった。ロックは元々、反抗的な若者の音楽だったと思うけれど、バンドをやっていた時代はとにかく反抗的な精神を音楽のなかで解放していた。

その時、その時、聴いていた音楽と自分は分け隔てられないものだった。
そういう本当の自分が音楽の中にあったからこそ、その音楽を通じて友情を育むことができた。
でも僕はいつまでも同じ音楽を聴いているわけにはいかなかった。
テクノを聴き、ハウスに踊り、エレクトリックな音楽を聴き、ジャズを理解した。
時代の最先端の音と常に触れていたいと思っている。

インターネット。ストリーミングサービス。
今は昔よりももっと自分のセンスで音楽をみつけることができるようになっている。

音楽は聴く者が自己を投影することができる。
それは漫画やアニメや映画もそうだ。
そういうところから間接的に人と交流することができる。生まれや言語みたいなものを超えて、音楽は存在する。
ずっと同じ音楽だけ聴いていたら、それは自分がずっと変わっていないことを意味している。
つまり心が成長していない。

しかし苦しい時も楽しい時もその時にあわせた音楽を聴き続けたら、より感情は多彩になり、センスは向上する。
食べるものも変わる。
話す言葉や考えることも変わってくる。
音楽は世界を変える。

音楽は魂を共有するツールであり、僕は高みへ引き上げられる。
誰もが高みへ引き上げられる。

より素晴らしいものは人に伝わり、人を変化させ続ける。
だから音楽は素晴らしい。
いろんな音楽を聴くこと。とても大切だと思う。

でもその音楽の素晴らしさが集団をまとめあげるためのものになると途端にダサくなる。
子どもたちが本当に幼い時に聴く歌を僕はダサいとは思わないけれど、教師や国から古い旋律の歌を与えられて、みんなで心をひとつにして歌えみたいなことを言われると、とたんに僕の中でヤンキーが暴れ出しそうになる。
音楽とは何か?
自分たちで自分たちの音楽を作り上げ、心をひとつにすることは素晴らしいことなのだけれど、それが上の世代から古いセンスのまま与えられたりすると凄く問題だ。

高校球児たちが戦いの果てに勝利者が歌を歌うという図式があるけれど、あれもなんなのだろうか?
高校球児たちの練習とか、血と汗と涙とかはまだ美しいということがわかる。
でも勝者しか歌えない校歌。
オリンピックとかもそういう文化を引き継いでいそうで、ちょっとセンスが古いなと思う。

僕は学校で国歌とか校歌を歌わされていたほうだし、そんな歌を歌ったって、ぜんぜん魂がひとつになったりするとは思わない。
自分たちで遊ぶように音楽をシェアし、漫画を貸し借りして、自分たちで作り上げる。そういう日々の中で生まれた自分たちの歌があった。
そして今ではもうそういう自分たちの歌も古いな、という自覚がある。
もし子どもがいたら、自分たちの歌を自分たちで歌って欲しいし、その時に自分たちを構成するものの中に、自分たちの時代が生み出したものが残っていて欲しいけれど、当然、押しつけたりはしない。
それは自分たちが嫌だったことだ。

僕の母校の校歌のセンスは、戦前のメロディラインとか、歌詞も戦前ぐらいのセンスのものだった。
そういうものを受け継ぎたかったか? と言われると、僕は好きではなかったということになる。
まだなんとなく覚えているけれど、それよりも歌謡曲やJ-POPのほうが好きだったし、今でももう日本の音楽、世界の音楽とわけられないような個人の音楽が好きだ。
それが僕の思想のすべてだと思う。
僕の好きな音楽は僕の思想を投影していて、それは変化していくけれど、僕の心がいちばん望んでいることをあらわしている。それが音楽の不思議だ。
そしてそういう音楽を心からシェアするから素晴らしいのだ。
そういうことが偉い人たちにはわかるだろうか?

すべては心の投影である。
だから反抗的な音楽も美しい音楽も、その心があらわれている。
そして時の流れすら、音楽の中にあらわれていて、新しいものは新しく、古いものは古いのだ。
その古さが美しい時はまだいいのだけれど。