ファンタジーとは何か?
もちろん空想や幻想ではあるけれど、本質的には僕は歴史を含んだ精神世界という考え方をしている。
『指輪物語(ロード・オブ・ザ・リング)』はトルーキンが生み出したファンタジーだ。
けれどこの物語には、現実の投影としてのファンタジー、つまり歴史というものが夢として表現されている気すらする。
架空世界に描かれているのは、完全な未知のものではなく、この世界の夢としての空想や幻想だ。
だからどことなく、第1次世界対戦や第2次世界大戦などの影も物語からみえる。
僕は昔はゲームが好きで、よくRPGをプレイした。
その時、何が面白かったかと言えば、広がっていく、発展していく歴史性を、ゲームという物語のなかで体験できたからなのかもしれないと思う。
世界が広がっていくにつれて、魔法が機械文明へと変化していったり、乗り物が増えたりするのは、そのまま宗教的な世界から、産業社会へと変化したこの世界そのものであるかのようだ。
教科書の歴史を読んでもわからない歴史の根源的な発展や成長の楽しさが、ファンタジーRPGにはあると思う。
ただこのファンタジーとは、宗教世界や中世が原型として下敷きになっているため、未来のことは描かれていない。
名作RPGを数多くうんだ『ファイナルファンタジー』シリーズの初期、特に5作目から7作目が面白いのは、この発展していくという成長曲線を描いてきたファンタジーが、未来的なSFの要素を取り入れることにより、逆に破滅的な暗い世界観へと変貌していったことによる。
80年代から90年代にかけてはバブルとその崩壊が現実の社会の雰囲気だった。そういう雰囲気の中で、世界が成長から衰退へと変化することが物語の中で語られていた。
それは、ポストインダストリーという産業社会の末路について語られていた社会学のなかで議論されており、宮崎駿らもこういった思想背景のもとに物語を生み出してきた。
ならばファンタジーとは大きくは過去だと言うこともできる。
そしてSFは、ある意味ではファンタジーと対極をなす未来の物語だ。
僕は『KID A』という小説のなかで、ファンタジーを取り扱った。
そしてファンタジーでは語りきれない、架空の未来のことをSFとして語りたいと夢みている。
果たして未来は暗くなるばかりなんだろうか?
ずっと考えている。
ファンタジーは宗教的でもあり、精神世界的である。
箱庭的な要素があり、様々な神秘が存在する。
そういったものごとが、この現実の中にもあるということを、パウロ・コエーリョさんらが語っている。
ファンタジーは失われたままなのだろうか?
そしてデジタルなコンピュータ的世界へと変貌するばかりなのだろうか?
まだまだ考えてみたい。
トルーキンや宮崎駿さんらは、機械文明、コンピュータなどが嫌いだったようだ。
ファンタジーが、産業革命前の世界をベースにすることが多いのはそういった思想性があるからかもしれない。
僕は昔からファンタジーもSFも好きです。