働きながら作家というものが、僕のひとつのキャッチ・フレーズである。
当たり前じゃないか? と思う人もいるかもしれない。
でも働くということと書くということはなかなか両立しない別種のものだと考えている。
日本の文学や私小説に対抗する文学として村上春樹さんは存在すると思う。なぜ昔の文学や私小説は現代人に嫌われるのか? という理由は、働くことと関係がありそうだ。
昔の日本は農業が盛んで、学問は必要なかった。一生懸命、働く人間は必要だったが、庶民の間では勉強をすることすら否定されていた時代があったと思う。
人々は、労働力でしかなかった。そういう世界だった。だから自分がなんであるかなんて考える人間に対して、そんなことは考えずに働けと言う人間は多かったのだと思う。
ちらほら昔の文学を読んだりすると、小説家は共同体から外れた道を進む変わり者であり、人間失格だったりした。昔の作家って、芸能の立ち位置にも近く、働こうとしない生意気な人間が自分のことも省みずに憧れるものだったのかもしれない。ロックスターみたいに。
日本では仏教的世界観があり、社会のために働くということができない人間が、落ちていく物語の系譜があったと思う。そしてまっとうに働いている人は、そういうまっとうに働いていない人たちが落ちていく物語を笑うのだ。
生きるための現実から人は本質的には逃げたいし、楽をしたいものかもしれない。しかし働かなければならない。それがまっとうというものだという人生観みたいなものが昔から根強く存在している。
向き合わなければならない諸問題に対して、書くことだけで生きようとすることはどこか社会的には問題がある行為とみなされていたのではないだろうか? そういう気がする。
賭博や酒などを使用して、働くことのストレスから麻痺的に逃げたり、発散する。そういうことも必要だけれど、書くことはもう少し個人的な抵抗という気がする。でも社会的に働きながらでありさえすれば、書くことは有意なことだ。
自分が経験してきたことや、考えたことをなんらかの形で伝える。
そのこと自体に罪はない。
人々が共通して背負っている働くということの責任を少しでも背負いながらであれば、書くことは自己の豊かさに繋がる行為だ。
そう僕は考えて、働きながら書くということをライフワークとしている。
人生という長い時間の中で、自分のための夢を持つことってとても大切だ。そして自分というものが大切だ。そういう時代だ。だからひと昔前と違って、社会からはみだし、落ちていく人間の物語ではなく、自我をめぐる村上ワールドが人気なのだ。
働くことはたとえ何か大きなものごとの一部になることでもある。ひとつの社会化がそこにはある。でも一方で個人というものも大切だと思う。
個人的なことと、社会的なこと。
そういう両輪があって人生がある。
書くことだけで生きることは難しい。そして生きることの前では、書くという行為すら難しい時がある。
でも、目の前の仕事から自由になって、自分というものをみつめる。その豊かさが問われる時代でもある。
だから、働きながら、自分という自己のために文章を書く。そしてそれがいつかどこかで救われることを願っているのだ。