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孤独をわかちあう存在

人間には、自分の意思とは別に、存在の枠のようなものがあり、その枠から逃れることができないのかもしれない。
僕の場合は人見知りであることが自分という存在を形作った枠だったと思う。
おとなからすれば、子どもが人見知りかどうかみわけることは容易い。
でも子どもからすれば、自分が人見知りであるかどうかを理解することは難しい。
自身をかえりみて、自分は人見知りだったと気づく。
誰とでも話すというよりは、特定の誰かと一緒にいて、その誰かさえいればいい。
そういう人間だった。
こういうもって生まれた人間性というものほど、どうしようもないと思うものはない。
誰とでも話せれば、もっと人生は生きやすかったかもしれないし、人と一緒に過ごすことが楽しかったに違いない。
でも、僕はそうじゃなかった。
たったひとりの友だちと、読んだ本を分け合い、話ができればそれでよかった。
映画を観て、音楽を聴いて、漫画を読んで、そのことをわかちあう人がたったひとりいればいい。
そういう人間のことを、孤独とよべるだろうか?
たったひとりわけあう者がいればいいという人間性は、小学校時代の親友に起因している。
その友人と出会う前は、僕はひとりぼっちだった。
KID Aという小説のなかで、その少年は髪の長い少年と呼ばれる。
少年と少女の中間ぐらいの神秘性。そういうものが髪の長さにあらわれている。
KID Aという物語を通じて、同性の親友と過ごした時間は、長い物語を通過して、やがて愛すべき異性を求める気持ちへと変わるのだけれど、たったひとりわかちあうものがいればいいという人間性は基本的には変わらない。
この人見知りさが、僕を本の世界へ誘ったのだろうし、いつか小説を書くと夢みたのもきっとこのせいだろう。
そしてできれば今でも、ひっそりと気心のしれた人間と静かに生きていたいと思う。
わりと心のどこかで、妻さえいればいいと思っている自分がいる。
そういうことってなかなか変わらない。

自分でも嫌だなと思うけれど、たったひとりの人間に向けられる僕の孤独は、昔から常に癒されてきたことが救いだ。
ずっと僕のそばには概ね、誰かひとりぐらいはいてくれたから。
妻はそういう僕の話を聞いて、いつも変な人だなと思っているだろう。
そういう偏愛を向けられる妻はいささか迷惑そうではある。
でも好きでそういう人間になったわけではないのだ。

大勢の人と仲良くできればいいけれど、自分を認めてくれるたったひとりの存在の大切さって、うまくいえないけれど、あるなぁと思う。