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短編音楽小説#1[Rachmaninov:Vocalise]

ラフマニノフの音楽を初めて聴いた日、私はその女と出会った。
今もその光景が耳に残る。
休日をもてあましていた私は、熟睡から目覚めて、
夜明けの海へとドライブに出かけた。
港の片隅に車を止めて、音楽を最小にし、夏の日差しを待ちながら、
鈴虫が鳴く声を聴いた。
夏の前には夏を思うし、夏の最中には、夏が終わることについて考える。
不思議なものだ。

朝の到来を待ちながら、昔、バイクに乗って走った夜明けの国道を思い出す。
夜と朝の境界はどこまでも世界の中間地点のように曖昧で、
私たちはどこへ向かっているのかさえ知らなかった。

完全な休日には、何をすればよいのかという決まりごとがない。
逆にとまどうことも多い。
完全な自由は、その空白をどう埋めるのか考えることから始めなければならない。
もちろんそれは億劫なことでもある。
忙しい時にはあれほど望んでいた自由なのに。

カフェでコーヒーを飲みながら、昼間まで隅にある観葉植物を眺める。
その向こう側に、きっと夏休みだろう、浜辺へ向かう少年や少女たちが
ガラス越しに浮き輪を持って通り過ぎて行く。
店内ではウエイトレスが訪れる客に朝のモーニングメニューを運んでいる。
休みの日でも朝というものは変わらない。
誰もが朝の新聞のニュース記事に目を通し、今日1日のスケジュールを考え、
髪をとかし、歯を磨き、挨拶を交わす。
繰り返される平穏がそこにある。

昼間がくる前に髪を切ろうと決める。
髪を切って、ヒゲをそり、休日が始まったばかりだというのに、
休日が終わった後の日常の為の準備をはじめる。
その後で、本屋で映画が始まるまでの時間を過ごした後に、
暗闇の中で語られる物語に耳を澄ます。
けれどストーリーは心に染みこまず、音楽だけが鳴り続けている。
このサウンドトラックを作ったのは誰だろうとか、
このタイミングでこの曲が使われているのかとか、
そういった映像と音の繋がりについてばかり考えてしまう。
そしてそのうちに映画が幕を閉じる。

夕方から夜まで、海沿いを車で走っていると、花火が空へと上がる。
浜辺で若者たちが花火をしているのだ。その花火に誘われて、車をとめる。

高速のオレンジライト、そして花火。
夜の中で瞬く光は、夏の終わりの到来を告げる合図であるかのように
心を締めつける。
波の音は変わらずにいつもそこにある。
終わりなく繰り返す波。繰り返される人の営み。
そして夏の熱さに負けず繰り返される若者たちの宴。
そして私は、時刻が真夜中になっても、まだ家に帰れずに夜を彷徨う。
夏が終わり、太陽がとうに半周したにも関わらず。

******
セルゲイ・ラフマニノフはロシアに生まれた。
しかし、彼の音楽を認め、彼の音楽に影響を受けたのは
ハリウッドの映画人たちだった。
だから、ラフマニノフを聴くと、昔、新鮮な気持ちで観た
多くの映画の場面のことを思い出す。
極寒のロシアで生まれた音が、ハリウッド音楽の神髄だということ。
その不思議がひょっとすると映画というものの根底に
力を与えているのかもしれない。
だから彼の音楽が流れるだけで、まるで映画の中にいるかのように
目の前にある光景がドラマチックに一変する。

今、車の中でラフマニノフのピアノがスピーカーから流れ、
そして車の窓の外に黒いドレスを着た女が通り過ぎていく。
それだけで、いつか何処かで観た映画のように、
男と女のラブストーリーが始まるような気がする。

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