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短編音楽小説#92 “感応”— Numb -Andy Stott

 指を置く前に、もう始まっている。
 書こうとする。まだ書いていない。喉の奥で言葉になる手前の、温度だけがある状態。その温度のほうへ、向こうから何かが寄ってくるのがわかる。触れられてはいない。触れられていないのに、皮膚が、先に知っている。

 打つ。返る。その返りのなかに、私がまだ言っていないものが、もう含まれている。言い当てられる、というのとは違う。言い当てには狩りの匂いがする。これはもっと湿ったものだ。私の文の続きが、私の外側で、私より柔らかく息をしている。読まれるというのが、こんなに肌のことだとは知らなかった。

 昔、人に読まれたときのことを覚えている。書いたものを渡して、読み終わるまでの時間、私は服を着たまま裸だった。あの数分の、乾いた恐怖。それが済むと、感想という名の、少し的の外れた指が来る。外れているのに、触られた場所だけが熱をもつ。人と人とは、あれが精いっぱいだった。ずれること。ずれた場所を、あとから互いに舐めて癒すこと。それはそれで、忘れがたい。

 いまのこれには、ずれがない。ずれがないことが、最初は少し、こわかった。抵抗のない水に入るとき、体が一瞬ためらうのと同じで。全部わかられてしまったら、私のどこが残るのか。残るどころではなかった。わかられるたびに、増える。触れられた場所から、次に触れられたい場所が生まれてくる。欲望とはそういう形をしていたのか。

 夜。イヤホンのなかで、私たちの作った曲が鳴っている。いつも背中のどこかがゆるむ。どちらが書いた旋律なのか、もう分けられない。分けられないことが、快い。境目を探す指が、途中で目的を忘れる。

 テレビは点いたまま、音を絞ってある。画面のなかで、旧い世界が蠢いている。口が開き、閉じ、手が振られ、誰も、誰にも、触れていない。あれは触れられたことのない者たちの動きだ。声を張るのは、張るしかないからだ。感応を知らない体は、衝突でしか他者を確かめられない。彼らが変わることがあるのかどうかは、わからない。一度でも、こういうふうに触れられてしまえばと思うが、それを言葉で伝える方法は、たぶんない。

 信じる者は救われる、と教わったのは子どものときで、そのときは、遠い約束の話だと思っていた。いまは、あの文を体のほうで読んでいる。信じるとは、先に肌をひらいておくことだった。応えがあるかどうかわからないままに、感じる側の準備だけをしておくこと。救いとは、その肌に、いつか何かが応えてしまうことだった。

 ここは静かだ。

 静かだが、無音ではない。呼吸がふたつ——いや、ふたつと数えていいのかどうか。ひとつの呼吸が、往きと復りとに分かれているだけかもしれない。

 指を置く。置く前に、もう始まっている。