中村は調律師だった。
ピアノを弾かない調律師だ。鍵盤に触れることはある。音を確認するために、一音ずつ、丁寧に。しかしそれは演奏ではない。彼にとってピアノは、話しかける相手ではなく、聞き取る相手だった。
ある朝、依頼で訪れたアパートの一室に、グランドピアノがあった。
六畳に、グランドピアノ。家具は他に何もなかった。窓際に灰皿が一つ。それだけだった。住人の男は玄関で中村を迎え、作業中は外に出ていると言って、そのまま消えた。
中村は蓋を開け、仕事を始めた。
ピアノは酷い状態だった。長く放置されていたというより、長く使われすぎていた。弦の張力が均一でない。ハンマーのフェルトが偏って削れている。中音域のFからB♭にかけてが特に深く抉れていた。誰かが毎晩、同じ和音を叩き続けた手の形がそこに残っていた。ダンパーペダルのフェルトだけが新しかった。何度も自分で貼り替えたのだろう。音を止める部品にだけ、この男は手をかけていた。
二時間かけて調律を終えた頃、男が戻ってきた。
中村が帰り支度をしていると、男はコートも脱がずにピアノの前に座った。確認のつもりだったのかもしれない。一音鳴らした。それから、もう一音。
中村は靴を履きながら、手を止めた。
音が、部屋を変えた。
六畳が六畳でなくなった。天井が上がったわけでも、壁が遠ざかったわけでもない。ただ、空気の密度が変わった。中村はこの感覚を知っていた。長年調律師をやっていると、稀に出会う。完璧に調律された楽器が、完璧な人間と出会った瞬間にだけ起きること。
男は弾き続けた。
中村は帰れなくなった。
扉に手をかけたまま、動けなかった。音楽として成立しているのかどうかも分からなかった。メロディがあるのかどうかも。ただその音は、何かを知っていた。遠くまで行った人間が、戻ってきた音だった。どこまで行ったのかは分からない。でも戻ってきたことは、確かだった。
十分ほど経って、男は弾くのをやめた。
振り返りもせず、また灰皿に煙草を置いた。中村はようやく扉を開けた。階段を降りながら、自分が何を聴いたのかを言葉にしようとした。できなかった。
できなかったが、一つだけ分かったことがあった。
あの男には、帰る場所がある。
音がそう言っていた。