小学校6年生の夜、僕は恐怖に震えながら目を覚ました。
浮浪者になって街を彷徨う夢、核戦争に巻き込まれる夢。
子供の頃から、僕には根源的な恐怖があった。
家族を失い、家を失い、社会から切り離されてただ徘徊するしかない存在への恐れ。
それは貧困そのものへの恐怖というより、人とのつながりを失うことへの本能的な戦慄だった。
小説家を志していた20代前半、僕はDTPのアルバイト先で揉め事を起こし、「小説を書くんだ」と息巻いて仕事を辞めた。
しかし半年間の文章修行は何も生み出さず、ある日、漠然とした不安に襲われてアルバイト雑誌をめくっていると、映画誌編集者の募集記事が目に飛び込んできた。
70人の応募者の中から選ばれたのは僕1人だった。奇跡のような出来事だと思った。
けれど浮浪者への恐怖は消えなかった。終電を逃して駅で1夜を過ごした時でさえ、「これは一時的なことだ」と自分に言い聞かせていた。
しかし、会社での有頂天が過ぎて「こんな会社、辞めてやる」と2年で退職してしまった時、恐怖は現実味を帯びた。
1年間の転職活動の末、東京への就職活動の帰りの夜行バスで、後に『KID A』となる物語の原型が生まれた。
それから8年後、35歳で妻となる女性と出会った後に、ようやく作品を完成させた。
その間、浮浪者のことを考えることは少なくなったが、街で彼らの姿を見かけるたび、心の奥で何かがざわめいた。
パウロ・コエーリョの『アルケミスト』で「前兆」という概念を知った時、僕は膝を打った。
良いことにも悪いことにも前兆がある。
それは確かに存在するのだと。
結婚して実家を出た後、近所に1人のおばあさんがいることに気づいた。
夏の炎天下でも冬の寒風の中でも、いつも同じ場所で煙草を吸っている。
浮浪者のような、そうでないような、曖昧な存在。
調子の良い日には彼女の存在を感じない。
実際にいない日もある。
しかし、僕の心が不安定になると、まるで悪い知らせを告げるかのように彼女が現れる。
そして実際に、悪いことが起きる。
彼女はまさに貧乏神のような存在だ。
不吉な予感の具現化として、僕の視界に入ってくる。
考えすぎかもしれない。誰にでもあることかもしれない。
けれど、幸運も不幸も、見えない何かから前もって感じ取れるものなのかもしれない。
今思えば、浮浪者への恐怖は僕にとって重要な羅針盤だった。
その恐れがあったからこそ、安定を求めて行動し、同時にその安定に甘んじることなく新たな挑戦を続けてきた。
恐怖は時として、僕たちが本当に大切にしているものを教えてくれる。
近所のおばあさんが本当に貧乏神なのか、それとも僕の心の状態を映す鏡なのかはわからない。
おそらく両方なのだろう。
ナーバスになっている時、僕たちは普段見えないものが見えるようになる。
それは警告かもしれないし、単なる心の投影かもしれない。
大切なのは、そうした見えない存在からのメッセージを1つの情報として受け取りつつ、冷静な判断を失わないことなのかもしれない。
運命の選択の瞬間、見えない存在が強い警告を発している時には、立ち止まって考える必要がある。
恐怖もまた、僕たちに何かを伝えようとしている。
それに耳を傾けることで、より良い選択ができるのかもしれない。