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短編音楽小説#78 僕らはいきものだから 神戸市混声合唱団

僕の場合、学校にコミットしていたのは中学1年生までで、中学1年生の時にみんなで合唱したなという記憶はあるのだけれど、実際にはほとんど覚えていない。僕はそれから27歳くらいまでバンドをしていて、その後も音楽を大切に思っているけれど、合唱というものにそれほどしっくりした思いを抱いていなかった。

音楽の形式は様々だ。そしてビーチボーイズのような優れたハーモニーを聴かせるバンドも聴いた。それは友だちの勧めだったり、村上春樹さんの勧めだったりした。

また怖い話好きのバンド仲間が、いつも曲を作っていると「最後は合唱だ」と言う。

この合唱というものは、小説家的なあり方とはぜんぜん違って、伴奏と声だけで曲を構成するのだが、ただ声を重ね合わせればいいというものではない。それは生きている音楽なのだ。

音楽というものは、人間に与えられたもっとも美しい芸術であり、そしてそれは複数の人間を必要とする場合が多い。もちろん小説のようにひとりでだって曲を作れるけれど、曲にその心の通いあいみたいな部分が反映されると、音楽はとても素晴らしいものになる。

現実の中学生の合唱を聴かせてもらえる機会があり、ただ歌わせられているのではなく、歌っていると感じられることがあって、感動した。音楽に感動した経験は何度もあるけれど、中学生くらいの力のこもった合唱は、もう二度と戻ってこない10代の日々のただなかにいる少年や少女の気持ちが伝わってきて、泣けた。

声が重なっている。声は楽器となる。そしてそれぞれの気持ちが音楽に溶け合い、ひとつの音楽となる。

友だちが言う。「最後は合唱だ」

これは気持ちとして、思いとして、凄くよくわかる。

この未来の行き着くところが、かつて友として存在した様々な魂がもう一度めぐりあって、同じ歌を歌えたら。そういう夢のあり方について、考える。

実際の社会では、心と心がかよいあうというのはもの凄く困難で、ひとりひとりがそれぞれに違う考え方をしながら生きている。

音楽だって、バンドでの演奏も素晴らしいし、すべてコンピュータで作られたデジタルなものだって、なかなかわかってもらえないかもしれないけれど素晴らしいものがある。

でも普通の田舎の学校の合唱というのは、この世界中にどれくらいあるかわからない学校の、それぞれの子どもたちだけが歌うことができるひとつの奇跡みたいに思える。

僕は自分に、そんな美しいころがあっただろうか?と思った。

そして学校という場所で歌われる、ある年齢の子どもたちが心通わせて歌う歌のことを思った。

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