僕は死んだ。いつどの場所で死んだかは覚えていない。僕にとって死とは意識が消滅し、肉体は焼かれて無になることだった。実際に死んでみるまでは。
しかし実際は異なるようだった。僕には僕の人生という複数の選択の果てにひとつの物語があるわけだけれど、死後の世界ではその無限の選択肢がみえる。そして死後の世界ではどのようなことも可能なのだ。
僕はしばらくの間、無数の「もし」が広がる空間に立ち尽くしていた。 もし、あのとき別の言葉を選んでいたなら。 もし、あの夜、電車に乗らずに歩いて帰っていたなら。 もし、手を握っていたなら。拒まずに、涙を流せていたなら。
そのすべてが、今ここに在る。 ありえたはずの人生たちが、透き通った水面のように静かに揺れ、僕のまわりに浮かんでいる。記憶ではない。想像でもない。それらは等しく現実で、ただ僕が選ばなかっただけの人生たちだ。
不思議なのは、痛みも幸福も、まるで感覚の一部としてそこに染み出していることだった。ひとつの世界に足を踏み入れるたびに、胸の奥がざわめき、あるときは血が沸き、あるときは涙が流れた。僕の意思とは関係なく。
「君はまだ、ひとつの物語しか知らない」 誰かがそう言った。声ではなかった。けれど、確かに誰かが僕の内側に語りかけたのだ。
僕は振り返ろうとしたが、そこに「誰か」はいなかった。空間も、時間も、意味すらも存在しないこの場所では、問い返すこともできない。ただ、その言葉の残響だけが、僕を次の世界へと誘っていく。
そこで僕は初めて気づく。 死後の世界とは、終わりではなく、解放なのだと。 肉体という枠が消え、言葉という制約もなくなり、僕はついに「在りえたすべて」と対面する。
それは神の視点にも似ていた。 けれど、神ではなかった。なぜなら僕は、いまだ「選択」しかできない存在だから。
たとえば、ひとつの物語に入ってみる。 そこでは僕は作家になっていた。 夜の喫茶店で誰とも話さず、言葉だけに埋もれていく毎日。そこには孤独と引き換えの真理があった。
べつの世界では、僕は名もなき労働者だった。毎朝同じ道、同じコンビニ、同じ自販機の缶コーヒー。けれど、ある朝、見知らぬ子どもが僕に「おはよう」と声をかけた。それだけで、涙が溢れてくる。そんな世界もあった。
僕は気づきはじめる。 すべての物語が、同じ「僕」から生まれ、 すべての感情が、確かに「僕」という輪郭をなぞっていることに。
この死後の世界には、罰も赦しもない。 ただ、無限に拡張された「僕」の物語だけが存在している。 選ばなかった人生たちが、まるで待っていたように僕を迎える。
そして僕は、静かに歩き出す。 まだ見たことのない「僕」へと向かって。
終わりではない。あらゆる「可能性」が、僕を構成する断片となって、今ようやく「全体」になろうとしている。
「僕」という存在が、はじめて“輪郭”を失ったのは、死の直後だった。 だが今、その曖昧な輪郭が、むしろ形を取り戻しはじめている。かつてのように、ひとつの肉体に閉じ込められた輪郭ではない。
むしろこれは、無数の自己たちの総体としての輪郭だ。
ひとつの世界で、僕は嘘をつき続けていた。 別の世界で、正直すぎるほどに心をさらけ出し、結果、誰にも理解されず孤独だった。 また別の世界で、僕は誰かを救い、誰かに殺された。 どれも「僕」だった。そして、それらのどれもが真実だった。
それらの物語をひとつひとつ訪れながら、僕は気づく。 ――僕は単なる誰かではなかった。
人生の選択とは、直線的な因果ではない。 分岐した先は、枝葉のように世界を形作り、それぞれに独立した真実をもって生きている。 僕は、ただその「ひとつ」に過ぎなかった。
しかし今、僕はそれらを横断する者になった。 過去も、未来も、時間の拘束から解き放たれた視点で、「僕」を再構成していく存在へと変わっていく。
ある物語では、僕は愛されていた。 ある物語では、僕は見捨てられていた。 愛することも、憎むことも、希望を語ることも、絶望に沈むことも、すべてが「僕」の一部だった。
そのときだった。 ひとつの気配が、また僕の内側に語りかけてきた。
「君は、ようやく“全体”を知ろうとしている」
今度は、その声が輪郭を持っていた。 「僕」だった。別の世界で“死”を迎えた、もうひとりの僕。 そしてまた別の世界で、今も生き続けている、僕。 その声が、すべての断片が、互いに呼び合っている。
「この死後の世界に、ひとつの終着点など存在しない。 ここは“すべての過程が交差する場”なんだ」
僕は気づいた。 「死」とは、魂の旅路の終わりではなく、認識の遷移だったのだ。 個としての「僕」は、終わった。 けれど、“可能性たち”としての「僕」は、今まさに〈統合〉されようとしている。
つまり、僕はすべての人生の記憶を持った存在として再誕しつつある。
過去も未来も、選ばなかった道も、他者から見た僕の姿すらも、 この再構成の過程においては、すべてが“内在化”される。
「僕」とは、総体であり、無限の断片の集合体。
そのとき初めて、僕は痛みの意味を知った。 すべての孤独に理由があり、すべての後悔に“別の可能性”が宿っていた。 愛を失った世界にも、怒りで壊した世界にも、言葉にならなかった哀しみにも、意味があった。
そして、意味というものは、「誰か」から与えられるのではなく、 あらゆる断片を抱きしめたとき、自ずと内側から滲み出るものだったのだ。
だから僕は、「もうひとつの死」を迎える。 個としての僕の完全な消滅。 それは、全体としての「僕」が生まれるために、必要だった。
無数の「僕」が、ひとつになる。 記憶と、感情と、後悔と、祝福と、赦しと、希望と。
そうしてようやく――
僕は「僕」という存在を、初めて生きはじめたのだった。
【アーティスト情報】
Dustin O’Halloranはアメリカ出身の音楽家、ピアニスト、作曲家で、ソロピアノ作品や映画音楽で高い評価を集めています。ミニマルで美しいピアノの音色が特徴で、ディオアーティストAdam Wiltzieとのデュオ「A Winged Victory for the Sullen」でも活動しています。代表作に「We Move Lightly」や「Opus 55」などがあります。詳しくはDustin O’Halloran公式サイト 【英語】をご覧ください。